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古屋晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター センター長・ハノーファー音楽演劇大学 客員教授

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音楽家のクオリティー・オブ・ライフの向上を目指す「音楽医科学」

2015年度から上智大学時限研究部門として、音楽家のための医科学研究を行う日本初の研究機関、音楽医科学研究センター(MuSIC)が設立されました。
今回は音楽医科学研究センターのセンター長である古屋晋一先生に「音楽医科学」について、そして音楽医科学研究センターが目指していること、などについてお話をうかがいました。

神経科学、身体運動学、工学、医学を活用して音楽家をサポート

――音楽医科学研究センターはどんな目的で開設されたのでしょうか。

古屋教授(以下敬称略):音楽医科学研究センター、英語では「Musical Skill and Injury Center :MuSIC」といいますが、音楽家のための医科学研究を行う研究機関として開設されました。

――音楽家のための医科学研究とは、どのような研究ですか。

古屋:音楽家をサポートするための医科学研究を「音楽医科学」と名付けました。
音楽医科学とは、神経科学、医学、工学、心理学、リハビリテーション、音楽教育・演奏のエキスパートから成り、音楽家のクオリティー・オブ・ライフ(QOL)の向上を実現するための研究、教育活動を行うことを目指しています。

――「音楽医科学」という考え方について教えてください。

古屋:たとえばアスリートを支えるサイエンスは、スポーツ科学が中心となって発展しました。
その結果、オリンピックでの競技成績の向上や故障の解決といった形で、アスリートのクオリティー・オブ・ライフの向上に大きく貢献しています。
スポーツ科学に相当する「音楽医科学」の研究・教育基盤を築くことが、本研究センターの使命だと考えています。

音楽家は数多くの困難に直面する

――「音楽家のクオリティー・オブ・ライフ」の向上とは、具体的にはどんなことを指すのでしょうか。

古屋:音楽家になるためには、膨大な知識、豊かで研ぎ澄まされた感性、そして高度で複雑なスキルが必要となります。
これらはもちろん一朝一夕で身につくものではありません。
幼少期から毎日毎日、音楽、楽器、身体と向き合い続けることで、初めて獲得できるものです。
しかも、努力すれば必ず音楽家になれるというわけでもありません。
周囲の「サポート」、本人の「才能」、そして時には「運」といったさまざまな要素が必要です。

――大変な努力を経てやっと音楽家になれるわけですね。

古屋:そうなのです。実際、音楽家は膨大な努力と研鑽(けんさん)の過程で、多くの困難に直面します。
図1は、古今東西を問わず、多くの音楽家が苦しんでいる問題の一例です。
音楽を演奏する方であれば、どれか1つは経験されたことはあるのではないでしょうか。

音楽家の直面する困難

図1 音楽家の直面する困難

――楽器をやったことがある人なら、誰でも思い当たると思います。

古屋:音楽家は常にこのような困難に直面しているのですが、いつも孤独です。 自分と先生以外、これらの問題解決のために助けてくれる人はいません。
もしできないことがあれば、何百回、何千回と反復練習をし、手が痛くなれば、湿布を貼ったり手を休めたりするだけです。
どんな練習をすれば、できないことが必ずできるようになるのか、どんな身体の使い方をすれば、けがを予防できるのか、そういったことを体系的に学べる機会はほとんどありませんでした。

音楽家のための心身の教育の歴史と世界の現状

――音楽家を科学的・医学的にサポートするというアプローチは、今までなかったのでしょうか。

古屋:1974年に世界で初めて、ドイツのハノーファー音大に音楽家のための身体教育と研究の専門機関である「実験的音楽教育研究所」が設立されました。
1993年には「音楽生理学研究所」と改められ、翌年には現所長エッカルト・アルテンミュラー(Eckart Altenmüller)教授が音楽生理学・音楽家医学研究所に2代目の所長として着任しました。
彼の尽力もあり、同様の教育・研究機関はドイツ全土に急速に広がり、今ではドレスデン、ミュンヘン、ベルリン、ケルン、デュッセルドルフなど主要な音楽大学において、音楽家のための研究教育機関が併設されています。
そこでは、次世代の音楽家・音楽教育者となる音大生たちに、適切な身体の使い方や効率の良い練習方法、けがの対処法についての講義が行われたり、国内の音楽教師たちのために週末を利用した講習会やセミナーを開いたりして、音楽家のクオリティー・オブ・ライフ向上に寄与しています。

私自身も、ハノーファー音大において、音大生を対象とした講義を担当したり、音大生の身体のトラブルに対する個別相談を受けたりする日常を送っていました。

――音楽家のための研究や教育は、主にドイツで発展していったのですか。

古屋:最初はドイツから始まりましたが、やがて欧州や北米にも広がっていきました。
まず教育面では、イギリスのロイヤルアカデミーやギルドホールなどの音大を中心に、主にアレクサンダーテクニックやフェルデンクライスといった、身体教育の教師らと連携した教育体制の整備が進みました。
またアメリカでは、音楽家のために体系立てられた身体教育法である「ボディーマッピング」を教える専門教師であるアンドーヴァー・エデュケーターズ(Andover Educators)が、各地の音大で教鞭を振るっています。

――今「教育面では」とおっしゃいましたが、それ以外にもあるのでしょうか。

古屋:「音楽をどう知覚するか、認識するか」といった「音楽と脳」あるいは「音楽と心」を扱う、いわば「研究の面」でも発展しており、これらを研究している機関が世界中に点在しています。
たとえば、カナダのモントリオールにあるBRAMSは、音楽知覚と認知の世界最高峰の研究機関として、この分野の研究を牽引し続けています。
またウエスタン・シドニー大学のマークス研究所やオーフス大学の研究所、ロンドン大学ゴールドスミス校などでは、音楽の実験心理学、神経科学研究が盛んに行われており、この分野の次世代を担う研究者を養成する教育プログラムも提供されています。

さらにこれら音楽の神経科学に携わる研究者らが一堂に会し、最先端の研究成果を発表・議論する場である国際学会「Neurosciences and Music」も3年に一度開催されています。
私が大学院生として初めて参加したのが第2回大会のライプツィヒでした。
それからモントリオール、エジンバラと開催され、第5回は2014年、フランスのディジョンで開催されましたが、回を追うごとに参加者は指数関数的に増えています。

アジアで初の音楽家を守るための教育研究機関として

――音楽医科学センターはアジアで初の音楽家を守る教育研究機関になるのでしょうか。

古屋:そうです。今や音楽家を守るための身体教育の必要性は、当たり前のこととして世界的に認識されつつありますが、残念なことに音楽家のための身体教育が世界で最も遅れているのはアジアです。
アジアは現代の音楽シーンを席巻する音楽家たちを多数輩出しているのにもかかわらず、このような研究機関が1つもありませんでした。
先のショパンコンクールの優勝者をはじめ、世界的な活躍をしている数多くの日本人音楽家や、近年活躍の目覚ましい韓国や中国の音楽家たちに対して、心身をサポートする体制が整備されていないのは正直申し上げて、驚くべきことです。

世界の現状

図2 世界の現状

――音楽医科学研究センターにはどんな特長があるのでしょうか。

古屋:先ほどご紹介したように欧米では音楽家に対する身体教育を行う音大が増えています。
また「音楽をどう感じるか、どう認識するか」について、脳神経科学や心理学の観点から研究を行っている機関も世界に点在しています。
音楽家に対する適切な教育はエビデンスに基づいていなければいけません。にもかかわらず、音楽家への最適な教育を生み出す根幹となる「音楽家のための脳や身体の研究」を体系的に行っている機関は、世界中を見渡しても、現時点ではハノーファー音大にしかありません。
私たちは、これらの問題を解決すべく、音楽家を守るためのアジア初の教育研究機関として音楽医科学研究センターを設立しました。

音楽家に笑顔と喜びを与えられる研究を目指す

――音楽医科学研究センターはどんなことを目標にしているのでしょうか。

古屋:音楽医科学が果たすべき使命は「音楽家ができないことができるようになる喜び」を生み出すことです。
私がいつも思い描く理想の成果とは「レッスンの帰り道」です。
素晴らしいレッスンを受けると、レッスンに行くときと同じ景色を見ているにも関わらず、帰り道が感動と喜びで、ひときわまぶしく感じられます。
「ここはこんなふうに弾けば弾けるんだ」「こんなイメージを持てば表現がこんなにも豊かになるんだ」など、喜びが全身から湧き出るような感覚です。
音楽医科学では、音楽家の方々にこのような笑顔と喜びを与えられる研究成果を生み出したいと考えています。

音楽医科学は、具体的に3つの達成目標を掲げています。

  1. 音楽家の技能熟達を支援する
  2. 音楽家の故障問題を解決する
  3. 脳神経系のやわらかさ(可塑性)の仕組みを解明する

また、これらの目標を具体的に音楽家の方々の笑顔につなげるために、私は研究と教育をつなぐ「音楽家のためのトランスレーショナル・リサーチ」を提唱しています。
音楽医科学研究では、はじめに技能(スキル)や病態の詳細を明らかにしなくてはなりません。

音楽かのためのトランスレーショナル・リサーチ

図3 音楽家のためのトランスレーショナル・リサーチ

次にスキルをさらに高める練習法や指導法を開発したり、病態を正常化する治療法やリハビリ法を開発したりする必要があります。
最後に、これらが本当に演奏や指導の現場で有効かを検証し、教育や臨床の現場で実用化することが求められます。
この3つのステップを経て初めて、音楽医科学が真に意義ある研究となり得ると考えています。

研究で得られた成果を音楽の現場に還元するアウトリーチ活動にも注力

――音楽家にとって真に意義のある研究、というのは大事なポイントだと思います。

古屋:「トランスレーショナル・リサーチ」のステップを着実に進めるためには、音楽家にとって意味のある研究を、高い水準で、しかも継続的に行う必要があります。
研究の科学水準が低いと信頼性や波及効果、そして学術的意義が不十分になりますし、研究内容が音楽家のニーズからかけ離れてしまったら、音楽医科学研究には意味がありません。
音楽医科学は、そのようなバランスを欠いた研究となる潜在的なリスクをはらんでいます。
科学の世界では、新奇性という「手法や発見の新しさ」が評価のひとつの基準です。
しかし新奇性があっても「音楽家の脳や身体運動・知覚機能を単に測るだけ」といった研究は、高度な技術を実現し、高い目標に挑戦し続ける音楽家には意味がありません。
そのような研究は、むしろこの分野に対する音楽家の方々の期待や信頼を失わせる危険性すらあります。
もちろん学術的な新奇性がない研究は、もってのほかでしょう。
音楽医科学研究は新しい分野ですから、何をやっても新しいわけですが、だからこそ「何をやるべきか」を突き詰めて考えることが重要だと考えています。
そのために私は研究に取り組む際、いつも以下の4つのことを自問自答しています。

  1. 明確な出口が見える研究は、音楽医科学研究の必要条件である
  2. 基礎研究や他分野との相互交流や貢献は、研究分野の発展と意義ある研究の実現に不可欠である
  3. 信頼性のある学術成果を、注意深く適切な形で、演奏・指導の現場に届ける必要がある
  4. 世界中の研究者らと学術的に交流し、切磋琢磨(せっさたくま)することで、研究が発展する

決して容易ではないこれらの目標を実現するために、音楽医科学研究センターでは、医学、工学、芸術の諸分野で第一線の先生方にご協力いただいています。
「医工芸」連携を実現する上で、世界最高のチームだと考えています。
このセンターが各分野のエキスパートのシナジー(掛け算)効果を生み出す場としての役割を担い、世界をリードする研究成果を創出する拠点となることを目指しています。

――研究成果は、どのように音楽の現場へとフィードバックされるのでしょうか。

古屋:私自身は、研究を通して得られた成果を音楽の現場に還元するために、京都市立芸術大学の音大生を対象とした集中講義、東京音楽大学での講義、エリザベト音楽大学や浜松学芸高校での講演、出張講義といった音楽大学や高校の音楽科での教育活動、さらに日本ピアノ指導者連盟(PTNA)、ヤマハ音楽振興会などの音楽教育者を対象としたセミナーや講習会を行うなど、アウトリーチ活動にも力を入れています。
また、音楽家のための身体教育プログラムであるボディーマッピングのコースやレッスンも実施しています。

このように教育の場を通して研究成果を現場に還元するだけではなく、時々刻々と変化する音楽現場でのニーズを理解し、それを研究に反映させるという双方向的な流れを循環させることを、大切にしています。

――最後に今後の抱負をお願いします。

音楽医科学は萌芽(ほうが)の研究分野ですが、音楽の現場でのニーズは古くから高い学問です。
また、音楽家は幼少期から長期的な訓練を積んでいるため、近年では脳神経系の可塑性の仕組みを理解するモデルとなり得るなど、神経科学分野へ貢献する可能性も注目されています。
今後は、教育機関、研究・医療機関、企業との提携を深め、センター内外のご協力者の方々の英知を合わせ、音楽家の笑顔を生み出す一助となる研究・教育活動の発展を目指したいと思います。
ひいては、アジアのみならず世界中の音楽家の方々のためのユニークな教育・研究基盤を確立し、音楽文化のさらなる発展に寄与したい、と思っています。

音楽医科学研究室のメンバー

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著者プロフィール ※記事掲載時点の情報です
古屋 晋一
古屋晋一(ふるや しんいち)
上智大学 音楽医科学研究センター センター長・ハノーファー音楽演劇大学 客員教授

大阪大学基礎工学部を卒業後、同大学大学院医学系研究科にて博士(医学)を取得。関西学院大学 理工学部、ミネソタ大学 神経科学部、ハノーファー音楽演劇大学 音楽生理学・音楽家医学研究所にて勤務した後、現職。
アレクサンダー・フォン・フンボルト財団研究員、日本学術振興会特別研究員PDおよび海外特別研究員などを歴任。
音楽家の脳と身体の研究分野を牽引し、マックスプランク研究所やマギル大学、ロンドン大学をはじめとする欧米諸国の教育・研究機関における招待講演や、国際ジストニア学会や国際音楽知覚認知学会、Neurosciences and Musicといった国際学会におけるシンポジウムのオーガナイズなどを行う。
また、ヨーロッパピアノ指導者協会(EPTA)をはじめとする国内外の音楽教育機関において、演奏に結びついた脳身体運動科学の講義・指導を行う。
学術上の主な受賞歴に、ドイツ研究振興会(DFG)Heisenberg Fellowship、大阪大学共通教育賞など。 主なピアノ演奏歴として、日本クラシック音楽コンクール全国大会入選、神戸国際音楽コンクール入賞、ブロッホ音楽祭出演(アメリカ)、東京、大阪、神戸でのソロリサイタルやレクチャーコンサートなど。
主な著書に、ピアニストの脳を科学する、ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと。
ランランとのイベント、ビートたけし氏との対談、NHKハートネットTVへの出演など、研究成果を社会に還元するアウトリーチ活動にも力を入れている。
東京大学、京都市立芸術大学、東京音楽大学にて非常勤講師を併任。
アンドーヴァーエデュケーターズ公認教師。


公式Webサイト
http://www.neuropiano.net


上智大学 音楽医科学研究センター
http://neuropiano.wix.com/music

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