これから音楽についての話をしようとするのに、“身体の構え”だとか“見る”などというと、ちょっとひねりの利いた言い回しだと思われてしまうかもしれません。音楽といえば音、つまり聴覚に訴える芸術のはずですから、音を“聴く”というのが最も自然だし、素直な表現だといえばその通りです。だったら何でわざわざそんな違和感のある物言いをするのかといいますと、それこそが音楽的な経験というものの多面的な面白さ、奥深さに迫るための鍵なのではないか…と私は常々思っているからなのです。ここがまさにワインディングロードのように曲がりくねった感覚なのかもしれません。でも、たとえばこんなエピソードだってあるのです。
世界的なチェリスト・指揮者として活躍し、音楽シーンに重要な足跡を残したムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Mstislav Rostropovich, 1927−2007)。これは、彼が主催するマスタークラスでの出来事です。ある受講生が、最初の音を外さないように、しっかりと両手を楽器に添えて演奏の準備を始めました。ところがロストロポーヴィチは、その受講生の手をチェロから引き離し、こう言ったというのです。
「その音符の正確な位置を見つけて、演奏の準備を完了してしまった途端、すべての魔法はどこかへ消えてしまうんだ。だから、あなたはその音を弾く然るべき“とき”が来るまで待たなければならない。そして(その“とき”が来たら)、両手を同時に構えて弾き出せばいいんだ。」※1(邦訳筆者)
適切なタイミングと正確な音程、それらは音響的な刺激としては重要なことかもしれません。しかし、上記のエピソードで語られているのは、どうやら音楽の本質というものが、「音を出す以前の身体の構え」の中に埋め込まれている、ということらしいのです。
なるほど、さすがにマエストロは言うことが違うな…と。興味深いことに、こうした発言はほかの演奏家たちからも聞かれることであり、実際に音楽研究の重要なトピックにもなっているのです※2。
ですから音楽を“身体の構え”とか、そこから“見え”てくるものとしてとらえようとする視点は、私たちと音楽とのかかわりを研究するひとつの糸口になりそうだ、というわけです。
もう少し身近な問題として考えてみることもできます。たとえば皆さんの手です。誰かに拍手をして音を立ててもらってみてください。そのときあなたは目を閉じて、拍手の音だけを聴いてください。おそらくあなたは、その音を聴くだけで手を叩いている人の両手の合わせ方を想像できるのではないでしょうか※3。そう、音はその音を生み出している出来事の状態を私たちに知らせているのです。
音源から発せられた音は、空気中に攪乱を起こして(遮るものが何もない場合には)同心円状に広がっていきます※4。その波のパターンは、音源での出来事の状態に特定的なものとなります。
つまり、音は聴覚的な刺激としてだけではなく、その音を生み出している人間や動物の振る舞い、あるいは自然や事物の運動の状態を知らせることができる、極めて豊かな情報を含んでいるのです。だからこそ、今聴こえている音には、その音を生み出すまでの人の構えや姿勢、さらには息づかいまでもが反映されていると推測できるのです。
音が生まれ育つための“芽”は、まさに私たち自身とその周囲に満ちあふれています。それゆえ、生まれて間もない赤ちゃんだって、誰に教えられるわけでもなく、自分の周りで発せられるいろいろな音に自然と反応し、それらを楽しみ、やがて音楽的な振る舞いをするようになっていくのでしょう。
今日、音楽というものが、私たちの豊かな生活を支えていることはもはや誰も疑うことはできません。それは、単に「音響的に心地よい聴こえをもたらすから」ということだけではなく、私たちのさまざまな感覚を刺激し、音にかかわる他者や事物とのコミュニケーションを可能にする、実に多様な営みだからなのかもしれません。
ある心理学者は音楽の始まりについて、「はじめに行為ありき」と述べ、すべての芸術は生活の実践から生まれたという指摘をしています※5。
身体を動かし、声を発する。そして他者が発した音とその音を生み出した振る舞いを知る。つまり音楽を研究することのきっかけは、何か不可思議で、つかみどころのないものにではなく、私たちのごく身近な出来事とそのつながりの中に見いだせるのです。
そんな意識を持って、音楽と人のかかわりを見つめ直していくことができたら、音楽の魅力がさらに別の角度からも“見え”てくる気がしませんか? たとえばオーケストラの指揮者。自身で楽器を奏でているわけではないのに、その姿や振る舞いの中に音楽を導く何かを感じ取ることができるのはなぜでしょう? あるいは、まだ幼い赤ちゃんが、自分の手や足を使って床や机を叩き、いかにも愉しげに音を立てて遊んでいるのはなぜなのでしょう? ここに共通しているのは、人の身体とその運動が、音と表現を生み出す契機になっているということではないでしょうか。
音楽的な経験についてもっと知るために、音にかかわる身体を見る。いや、もっと大胆に言ってしまえば、音楽を生み出す出来事としての身体の振る舞い、つまり“音楽の在処としての身体”についてもっと理解を深めることができたら、「なぜ私たちが理屈抜きに音楽に惹きつけられ、その響きに身を委ねるような感覚を抱くのか」、その理由を見つけることができるかもしれないと思うのです。
だから今日も、音楽を聴くだけではなくて“見る”、そんなワインディング(?)ロードのような探求の道を、私は歩き続けています(当の私にとってはそれほど曲がっているとも思えないのですが…)。読書の皆さまには、「音楽にもいろいろな研究の仕方があるもんだな」と思っていただければ、この拙稿をご披露した甲斐があるというもの。研究の成果に乞うご期待!ということにさせていただくことにいたしましょう。