前回は、多くの演奏者が緊張・あがりの問題を抱えている実態をお伝えしました。演奏者にとって緊張・あがりが悩ましいのは、やはり、本番で練習のときと同じように演奏できなくなってしまうためでしょう。今回は、ピアノ奏者を対象とした実験結果を踏まえ、緊張・あがりによって演奏が変わってしまう身体メカニズムを探っていきたいと思います。
前回は、多くの演奏者が緊張・あがりの問題を抱えている実態をお伝えしました。演奏者にとって緊張・あがりが悩ましいのは、やはり、本番で練習のときと同じように演奏できなくなってしまうためでしょう。今回は、ピアノ奏者を対象とした実験結果を踏まえ、緊張・あがりによって演奏が変わってしまう身体メカニズムを探っていきたいと思います。
これまで、緊張・あがりの研究は実験室環境で実施されることが多く、実際の公演場面における緊張感を再現できないという限界がありました。そこで私たちは、実験を兼ねた本物のピアノコンクールを開催し、出場者の生理反応を計測するという初の試みを行いました※1。通常のコンクールと同じように、音楽大学や音楽教室などで出場者を公募し、当日、出場者の皆さんには、50名ほどの聴衆と5名の審査員の先生方の前で演奏していただきました(図1)。
ただ一点普通のコンクールと違ったのは、計測用のセンサーを体中に付けて演奏していただいたことです。出場者の皆さんには、事前にリハーサルとして、同じセンサーを付けて練習室で一人きりで演奏していただき、リハーサル時とコンクール本番時のデータを比較しました。この実験によって、これまで分からなかった緊張・あがりに伴う生理反応の特徴が明らかになってきました。
この「コンクール実験」では、出場者の皆さんに、スポーツ選手などがよく使う携帯型心拍計を装着していただきました。胸にベルトのようなセンサーをまくと、心拍数のデータが腕時計型の受信機に無線で飛ばされて記録されます。緊張すると心拍数が上がることはよく知られていますが、実際の演奏の本番で時々刻々の心拍数を測定した研究はほとんどありませんでしたので、データを見て私はとても驚きました。演奏中の心拍数は、リハーサルでは平均112.4拍/分だったものが、コンクールでは146.6拍/分になっており、34拍/分ほども増えていたのです※1。中には、180拍/分ほどまで上がっている方もいらっしゃいました。心拍数を測定しながら運動したことのある方はお分かりになるかと思いますが、180拍/分まで心拍数を上げるには、ほぼ全力で走らなければなりません。座っている状態でこれほど心拍数が上がることは、日常生活ではほぼあり得ないと言っても過言ではないでしょう。また、足の裏から演奏中の精神性発汗量も測定しましたが、こちらも、リハーサルに比べてコンクールで大きく増加していました。
ここで測定した心拍数や発汗量は、どちらも「自律神経系」が制御しています。自律神経系は「交感神経系」と「副交感神経系」の2つに分けられます。交感神経系は、血圧や心拍数を上げたり、発汗を促進したり、胃腸の動きを鈍くしたりして、身体全体を緊張状態にする働きをします。一方の副交感神経系は、逆に、血圧や心拍数を下げたり、発汗を抑制したり、胃腸の動きを活発にしたりして、身体全体をリラックス状態にする働きをします。演奏の本番になると、交感神経系の活動が高まることで、胸がドキドキする、手に汗をかくなどのさまざまな症状が出てきます。
さて、このコンクールの出場者は学生やアマチュアの方々でしたが、プロの演奏家も、こうした身体症状に悩まされているのでしょうか。実は、同様の条件で演奏した場合、一流の演奏家の方々でも、本番では心拍数が大きく上昇することが分かっています。これを聞いて安心された方も多いのではないでしょうか。心拍数が上がること自体は、演奏に直接的に悪影響を与えるわけではありません。むしろ、感情のこもった、聴衆の心を打つ演奏につながる可能性もあります。スポーツ心理学の分野では、選手によって、良いパフォーマンスを達成できる覚醒・興奮レベルが異なることが知られています※2・3。演奏に適した心拍数は、演奏者や演奏曲、演奏環境によっても異なりますので、その状況における最適な心拍数に近づける工夫が必要となります。また、演奏直前に胸の高鳴りを感じたときは、「これは良い演奏に必要な反応だ」と前向きにとらえることが大切です。実際、スポーツ選手が、試合前の不安に伴う身体症状を前向きにとらえることで、試合中のパフォーマンスが向上したという報告もあります※4。
まず、腕の筋肉の活動が増えることで、無意識のうちに強い力で打鍵してしまい、強弱表現に支障が出やすくなりました。同時に、フレーズ間で腕をうまく脱力できなくなり、腕の重さを利用した打鍵が困難になることが示唆されました。また、肩の筋肉の活動が増えることで、演奏中に肩が上がってしまいやすくなることも分かりました。肩の僧帽筋という筋肉は、特にストレスの影響が出やすく、緊張しやすい人ほど肩こりにも悩みやすいと言えます。さらに、緊張・あがりによって筋肉の活動のタイミングも変わってしまうことが分かりました。楽器を弾くときに使う腕の筋肉の中には、関節を曲げる筋肉(屈筋)と、関節を伸ばす筋肉(伸筋)があります。たとえば、肘を曲げる上腕二頭筋は屈筋、肘を伸ばす上腕三頭筋は伸筋です。これらの筋肉は、普段は、屈筋が縮んだら伸筋が伸び、伸筋が縮んだら屈筋が伸びるというように、交互に収縮しているため、関節をスムーズに動かすことができます(図2)。
ところが、緊張すると、屈筋と伸筋が同時に収縮してしまう「共収縮」という状態が生じます。本番になると、動作がぎこちなくなってしまうのは、屈筋と伸筋の共収縮によって、手首や肘などの関節が硬くなってしまうためだと考えられます。こうした筋肉の状態の変化によって、出場者の演奏評価得点は、リハーサルに比べてコンクールで大きく下がってしまいました。
一方、一流の演奏家が同様の本番で演奏した場合、心拍数は増加するものの、腕の筋肉は、普段の練習と同じように脱力できていたのです。本番でも実力を発揮できる方々は、たとえ緊張・興奮状態にあっても、筋肉の活動をうまくコントロールしていることが示唆されました。別の回で詳しくお伝えしたいと思いますが、本番でのパフォーマンス低下を防ぐためには、普段と異なる精神状態でも練習時の筋肉の活動を保って演奏することを目指した練習が必要となります。
今回は、緊張・あがりが身体に与える影響についてお伝えしてきました。次回以降は、こうしたさまざまな身体反応に対処する方法をご紹介していきたいと思います。