focusスペシャル対談
〜ヤマハ音楽振興会設立40周年によせて〜

Part1 小野崎孝輔&田中克彦 〜世界歌謡祭・ポプコンを語る〜

財団法人ヤマハ音楽振興会の歴史の中で、とりわけ人々にインパクトをもたらし、音楽普及や音楽振興、そして国際交流など、さまざまな面で大きな足跡を残したイベントといえば、世界歌謡祭とポピュラーソングコンテスト(ポプコン)である。今回は、この2つのイベントで指揮者や編曲者を務め、今なお意欲的な活動を幅広く展開している小野崎孝輔氏と田中克彦氏に、当時の話や果たしてきた役割について、対談形式で語っていただいた。

音楽振興に大きな役割を担ったポプコンと世界歌謡祭

ポプコンのルーツは、当初、作曲コンクールという名称で1969年にスタートし、初期(71年の第3回作曲コンクール)から小野崎先生も指揮をしています。
1972年の第4回から、ポピュラーソングコンテストの名で、若者中心のコンクールに移行しました。

小野崎
そうですね。最初の頃は合歓ポピュラー・フェスティバルというコンテストも 並行して行われていて、ほとんどプロの作曲家が書いていました。ポプコンに衣替えする前の出発点ともいえる「作曲コンクール」や「合歓ポピュラー・フェスティバル」はその後のポプコンとはかなり異なっていましたね。
田中
ぼくは大阪でしたから、ポプコンになって初めのうちは、フォーク・ソングの延長線上の作品が多いなと感じましたが、やがて、円広志、世良公則&ツイストなど、ユニークな奴が出てくるなあと思いました。アレンジャーの立場で見ても、おもしろかったなあ。

曲者という立場から、世界歌謡祭、ポプコンを振り返る小野崎孝輔氏(左)と田中克彦氏(右)

小野崎
ポプコンは、いくつかアレンジを手がけましたが、あまりお手伝いはしなかった(笑)。ポプコンは、それこそ多種多様な参加者が居て、いいものが勝ち上がってきます。それから、「この子は、どうしようか?」という話が東京でスタートし、プロのアレンジャーを付けます。世界歌謡祭の場合は、(バックのオーケストラの)編成が大きいから、アレンジャーはプロじゃないと駄目なんです。
田中
ポプコンの場合は、ソロ、デュオ、バンドをはじめ、小さい編成が中心でしたし、自由な発想が魅力になっている作品もありました。
小野崎
結構、怖いもの知らずで上がってきましたからね。世界歌謡祭は、世界中から曲が来ますから、ポプコンから来た曲とは、プロの目で見ると、技術的な完成度の面ではどうしてもレベルが違います。それを「同じ土俵で審査していいのかな」という気はしていました。でも、段々、日本もレベルが上がってきましたね。
田中
よく覚えているのは、第4回(73年)の《パリは不思議》(歌手はイタリアのジルダ・ジュリアーニ)!耳にした瞬間に、絶対にグランプリだと思いました。
小野崎
あれは日本人好みなんですよ。 マイナー・キーでね。あの頃は、カンツォーネが流行っていましたから。僕らは、カンツォーネのことを“イタリアン・ロック”と呼んでました。実は、小坂明子の《あなた》にしても、中島みゆきの《時代》にしても、共通した味わいがありました。そういう意味では、世界歌謡祭は、審査員が全員アマチュアでしたから、プロの目で見て、指揮者として接してみて、「技術的に立派だな」と感じた曲が意外と受けなかったり、「え、これが入るの?」と思うようなケースもありました。
田中
いい意味で、意外性と多様性があったとも言えるし、そうはっきりとは断言できない面もあるわけですね(笑)。

世界歌謡祭でのエピソード

小野崎
世界歌謡祭では、第6回(75年)でグランプリを獲得した中島みゆきが印象的でした。この時は、いわゆるイタリアン・ロック的な昔風のワーッっていう大きなバックがついていたんですが、グランプリが決まり、再演で歌う時に、「ギター一本で歌いたい」と言い出しました。これには困ってしまったんだけれども、彼女は《時代》の作曲家で、作詞家で、歌手でしょ。その人が、自分で言うのを聞かないわけにはいかないので、「じゃあ、いいよ」と言い、ギター一本でやることになりました。
田中
でも、オーケストラは演奏するつもりでスタンバイしていたわけですよね。
小野崎
そう。もしも余裕があれば、2コーラス目からオケが入るようにすればよかったんだけど、ぼくのいる所とオケがいる所は、武道館の端と端なので、とてもじゃないけれど連絡できなかった。でも、そのギター一本による歌唱が、大きな拍手を巻き起こしました。そもそも、あの曲は大きなオーケストラが付くタイプの曲ではないんです。本人には、こういう雰囲気の曲ではない、という思いがあったのでしょう。だから、「一人で歌いたい」と言ったんだと思います。後から聞いたのですが、川上源一さん自身が、「あれは、ギターだけで聴いてみたかったんだ」と言ったそうですね。ぼくは、作者自身がそう言ったので、疑いもなく「どうぞ」と言っちゃいましたが、ヤマハのステージ制作スタッフの迷惑なんか全然考えませんでした。一番盛り上がるトリの曲が、ギター一本だけで歌われたというのは、あれだけ大きなイベントとしては前代未聞のことでしょう。作曲する人と編曲する人って、全然違うんですよ。

田中
編曲は、頭で考えますから。まず、コードとか音楽的な考えが先にきます。アレンジの力は、曲を活かしもすれば、その持ち味をそいでしまうケースもあるなど、とても大きいものがあると思います。それでも、ポップスに限らず、「こういう感じでやってくれ」と相手に頼まれ、歌手であれば声を聞いて、譜面から感じ取ったものを考えながら、こんな感じが合うのではないかと思って書くのですが、本人が「これは違う」という場合があります。自信をもって仕上げた譜面でも、そういうことがあり得ますから、アレンジというのは難しいです。また、アマチュアの曲をアレンジする場合は、もっと気を遣いました。育てるというか、教えるというか、そうした面も考えていかなければなりませんから。でも、ポプコンのような、そういう機会があったことは編曲者として幸せだったと思いますね。

世界中から優れた曲が集まる場として、大きな注目を浴びた世界歌謡祭(1970〜1989)。
コンテスト形式のフェスティバルとしては世界でも類をみないほどのスケールで、華やかに行われた。

アマチュアの音楽シーンをリードしたポプコンの存在

田中
僕は、いつも言っているのですがポプコンが終わってしまったのは、残念でしたね。こういう話をすると、冗談みたいだと思われるかもしれませんが、関西の決勝の時に、出場者の楽器が急に変わっていることがありました。ギターが、みんなヤマハのものに変わっている。しかも、ベースもヤマハ(笑)。そういう発想の時代だったんです。もちろん、楽器がどうこうということを別にして、あの時代にアマチュアの音楽シーンに活気があったのは、間違いなくポプコンがあったからですよ。
小野崎
ポプコンから世界歌謡祭に乗り込んでくるミュージシャンは、関西の人が多かった時期がありましたね。
田中
大阪をはじめ、関西には、人から言われるのが嫌い、という風土があるからじゃないですか。「自分が好きなことをする」という感じがあると思います。あの時代、大阪からグランプリを獲得した曲は、一つとして同じ傾向はなかったと思うんです。毎回、ユニークな発想の曲が出てきました。小坂明子のしっとりとした《あなた》、世良公則&ツイストのパワフルな《あんたのバラード》、そして、「飛んで、飛んで」で有名な円広志の《夢想花》もありましたね。それこそ、何百、何千という曲が集まったと思います。そして、最終的に選考されたものを見せられて、「これのアレンジはどうでしょう」と尋ねられるわけですが、その中に最低でも2、3曲は光る曲がありました。おもしろいというか、変わっている曲もありました。大阪の土壌と言えるかどうかはわかりませんが、「人の真似をするのはいや」というのはあったんじゃないでしょうか。アレンジをする際に、ぼくは、素材のよいところを残してやりたいというタイプですから、ユニークな持ち味に、味つけをするつもりでやっていました。

全国から個性的なミュージシャンが集まるコンテストとして、一大ブームメントを巻き起こしたポピュラーソングコンテスト(1969〜1986)。
この大会をきっかけにして、その後大活躍したミュージシャンは枚挙にいとまがない。

音楽振興に加え、国際交流の役割も果たした世界歌謡祭

小野崎
世界歌謡祭の場合は、完成度の高い譜面が来ますから、音の直しはほとんどなかったし、それに大抵の場合、アレンジャーがついて来るんです。自分の耳で確かめて、おかしいと思ったら自分で直しますからね。「いいアレンジだな」と思うものもあるし、「え、これ?」というのもありました。
田中
それは、リハーサルの時点で聴いていてわかりますね。
小野崎
そう、一度、音を出せば、これはいい、これは駄目というのはわかりますし、そうした作品は、予選で落ちることが多かったです。田中先生が言われたように、曲の良さを浮き上がらせる譜面が、いいアレンジなんですよ。ポップスは、4/4拍子と3/4拍子が基本ですから、始まってしまえば、テンポは動かないでしょ。本当は、曲が始まってしまえば、指揮者はいらないんですよ(笑)。
田中
しかし、日本武道館のように大きな会場で、音楽監督兼指揮者として、オーケストラをまとめ上げるのは、いろいろな苦労があったのではないですか?
小野崎
音響さんは大変ですよ。ここで発した音も、2階の一番後ろでは時差が生まれますから。こちらが、遅れたようにして送ってあげないと、一緒のタイミングになりませんから。
田中
そういう意味では、すばらしい音楽の普及や振興だけではなく、音響や舞台のスタッフや機材も、世界歌謡祭やポプコンを通じて、育っていったと言っていいでしょうね。
小野崎
どちらも、当時は、全国的に話題になりましたよね。しかも、継続的に行われて、ポップス界を啓蒙する力が、ものすごくあったんじゃないですか。世界歌謡祭は、ミュージシャンもバンドのメンバーも楽しみにしていました。日本人のプレイヤーは、海外の歌手やアレンジャーから、とても評判が良かったんです。音楽的に、ケチを付けられたり、文句を言われたりしたことは、一度もなかったです。オーケストラのメンバーが、審査員とは関係なく、渋い曲を選んで、賞を出していたこともありました。みんな本職だから、それぞれの好みはあるけれども、オーケストラの中で、専門家が見たらこの曲だな、というのを選んでいたみたいです。
田中
国際交流という面でも大きな成果があったと思いますね。ポール・モーリア、アンドレ・ポップ、ジノ・メスコーリ、フランシス・レイなど、錚々たる人たちも参加していましたね。
小野崎
ヤマハ音楽振興会で、あれだけのイベントを仕切っていたのですから、大きな意味があったと思います。最近は世界的に注目された大きなイベントや音楽祭はなくなってしまいましたが、とにかく、音楽をやる人、そして音楽を聴く人、音楽の好きな人を地道に増やしていくことが肝心ですね。
田中
なんらかの形で、そういう人々を増やしていく活動が必要だと思います。

Profile

小野崎孝輔(作・編曲家)
東京芸術大学卒業。作曲・編曲家として小椋佳の初期作品やペギー葉山の作品等を手がける。20年にわたりヤマハ世界歌謡祭の音楽監督と指揮をつとめたほか、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽団とのコンサートや、福岡市民芸術祭 '92「世界のうた」'95「ときめく愛のうた」の指揮、編曲を担当するなど、幅広い分野で活動している。Composers & Arrangersサミット プロデューサー。
田中克彦(作・編曲家)
大阪を拠点とし、自身のジャズトリオを経て、作曲、編曲家として活動を始める。NHKでの、ドラマ、ショウ音楽を担当。又、京都市交響楽団、大阪フイルハーモニー、香港交響楽団などの、ポップスコンサートの編曲を手掛け、1998年10月、リンカーンセンターでのウイントン・マルサリス、ハンク・ジョーンズとオーケストラの、コンサート全ての編曲と指揮を担当した。

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