
ベートーヴェンの暮らしぶりとは、果たしてどんなものだったのでしょう。
時代は今から約200年ちょっと前、1817年夏の終わり。場所はオーストリア、ウィーン郊外ハイリゲンシュタット。ベートーヴェンは文化の栄える都心にいることも好きでしたが、同時に自然も好きでした。そこで、ベートーヴェンは簡単にウィーンまで足を伸ばすことができ、かつワイン畑と森が広がるこの地に何度か居を構えていました。
それではベートーヴェンさんの一日に密着させていただきましょう…!
午前6時
太陽が地平線から顔を出すころ。窓の外も薄ら明るくなってきました。鳥のさえずりも聞こえてきます。薄暗く散らかった部屋にあるベッドから、のそのそと起き上がってきたベートーヴェンさん。おはようございます!
「……おはよう」
ベッドから起き上がると、ふと壁にかかった4枚の肖像画に目をやります。
「これはバッハ、ヘンデル、グルック、そして僕の先生だったハイドンの絵だよ。この4人はいつも僕にやる気を与えてくれるんだ」
そして、そのまま向かったのはキッチン。まずお湯を沸かします。そして何やら数を数えています…よく見ると、彼が数えているのはコーヒー豆です。そして、ピッタリ60粒まで数えたコーヒー豆をミルで挽き、コーヒーを淹れます。
「僕はコーヒーが大好きで、コーヒーを飲まないと一日が始まらないんだよ。日が暮れるまで何杯も飲むんだけど、たまに来客があると少し多めに入れてあげるんだ……」
コーヒーを飲みながら、いつ買ったのか分からないバサバサのキフリ(クロワッサンのようなパン)を口に突っ込むと、そのままピアノに向かいました。
午前6時半
ブツブツと小言を言いながら作曲を始めました。ピアノの上は楽譜と紙が散らばっています。たまに鉛筆の先端をピアノに当てて、もう片方を耳の後ろに当ててピアノを弾いています。しばらくすると、部屋をあちこち探し回り始めました。ようやく何かを見つけた様子のベートーヴェン。机の上にあったメガホンのようなものを手に取り、ピアノに戻りました。
「これは補聴器だよ。友達のメルツェルっていうやつが僕のために作ってくれたんだ。これがないと音が聞き取りづらいんだ。ちょうど15年前、この近くのパン屋で間借りをしていた時に、あまりにも難聴がひどくなってね。あれは何歳だったっけな……覚えてないや。でもさっきは手元にあった鉛筆でピアノと耳の後ろを繋いで音を聞いていたんだ」
なるほど。ベートーヴェンの耳がどんどん遠くなり、ハイリゲンシュタットでその苦悩をしたためた《ハイリゲンシュタットの遺書》を書いたのですが、この家の近くで書かれたのですね!骨伝導でピアノの音を聞いていたというのもなかなか面白いです!
午前11時
もうすぐお昼です。
「カールはもうすぐ4時間目の授業が終わる頃か……いや、なんでもない。作曲も煮詰まってきてしまった。ちょっと外の空気を吸いに行こう」
イラついた様子でそう言い放つと、そのまま外に出て行きました。早足で家の近くを散歩し、ああでもない、こうでもないとブツブツと何かを言いながら歩き続け、家に戻ってきました。
正午
家に戻ったベートーヴェンさん。またピアノの前に座り、作曲を始めました。
午後2時
作業を終え、キッチンへ向かったベートーヴェンさん。何かを茹で始めました。そして卵を割ったりチーズを入れたりと忙しそうです。何を作っているのでしょう。
「これ?チーズマカロニだよ。昔から大好きでね。マカロニも自分でこねて作ったんだ」
ちょっぴり自慢げに語るベートーヴェンさん、出来上がるまでにワインをテーブルの上に用意しています。
「一緒に飲むか?このへんで作られたグリューナ・フェルトリーナっていう白ワインなんだ。僕の地元の近くラインガウでも白ワインが有名でね」
出来上がったチーズマカロニを平らげると、食器をそのまま放ったらかして、何やら支度を始めました。
午後4時
近くにあった五線紙と、何やら手帳のようなものをポケットに突っ込み、帽子をかぶって外へ出て行きました。またもお散歩です。
「昔もよくこのへんを散歩したものだよ。どうだ、この川、きれいだろ?田園風景にはピッタリだ。せせらぎの音や鳥のさえずりも聞こえたら、どんなに幸せだっただろう」
時折立ち止まり、持ち合わせた五線紙に音符を連ねるベートーヴェンさん。2回目のお散歩はさっきよりも落ち着いた様子です。
カーレンベルクの丘と呼ばれる地帯を2時間ほど散歩し、ワイン畑にポツンと建てられた小屋の前で足を止めました。
「入るぞ」
午後6時
中に入ると、何やら薄暗い部屋の中にたくさんの人が。ホイリゲです。いわゆるワイン畑で採れたブドウで作った出来たてのワインを飲む居酒屋です。
「この辺りは、さっき君が飲んだ白ワインのグリューナ・フェルトリーナと、赤ワインのツヴァイゲルトが有名なんだ。まぁ僕は白ワインが好きだけどね」
椅子に座ると、新聞を広げ、葉巻をプカプカと吸い始めました。すると別のお客がベートーヴェンさんのところへやってきました。地元の顔なじみです。会釈をすると、ポケットから手帳のようなものを取り出し、相手に渡します。耳の聞こえが悪いベートーヴェンさんはこうして筆談をしていました。すると、ベートーヴェンさんは席を立ち、奥の部屋へ。そーっと覗いてみると、チェスを楽しんでいます。しばらくして、楽しい表情で戻ってきたベートーヴェンさんは、さらにワインを注文。
「チェスってのは面白いよ。むかーしに習ってたハイドン先生が教えてくれたんだっけ。覚えていないけど、チェスを通じてコミュニケーションが取れるってのもなかなか楽なものだよ」
それから、たまにビールを飲み、ちょっとした川魚の料理を美味しそうにつまみつつ、お酒を飲んで愉快になったベートーヴェンさんは支払いを済ませ、店を出ました。
午後10時
家についたベートーヴェンさん。体も洗わず、そのままベッドへ。酔いが入っていい気分になったまま寝ちゃうんですね。
ベートーヴェンさん、今日は密着させていただきありがとうございました!
「こちらこそ珍しい来客で楽しかったよ。耳が聞こえにくくなってからは友達が少なくなってしまってね。それはそうと、もうすぐこの家を引き払わなきゃいけないんだ。秋からはウィーンで演奏会がたくさんあるからね。何回目の引越しだろう……覚えていないや。その頃になったらまた遊びにおいで」
フッとろうそくの火を消すと、そのまま大きないびきをかいて気持ちよさそうに眠りにつきました。
以上、ベートーヴェンの一日密着でした。
こちらの音源のほとんどをベートーヴェンの時代の楽器でお楽しみいただけます。
※Chrome,Firefox,Edge,Opera,Safariよりお聞きいただけます。
1. J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻第22番 変ロ短調 フーガ(ベートーヴェンによる弦楽五重奏版 Hess.38)
J.S.バッハはベートーヴェンの中でもやはり特別な作曲家でした。中でもこの曲は、ベートーヴェンによって弦楽五重奏に編曲されました。
2. ピアノソナタ第17番「テンペスト」作品31-2〜第3楽章
ハイリゲンシュタットで聞いた馬車の音から着想を得て作曲したと言われています。
3. 交響曲第6番「田園」作品68〜第2楽章「小川の風景」
ベートーヴェンがハイリゲンシュタットに流れる小川から着想を得て作曲したと言われています。
4. カプリッチョ「失くした小銭への怒り」作品129
この題名は他者によって付けられたものですが、きっとベートーヴェンも散らかった部屋で小銭を失くしてブツブツと文句を言っていたことでしょう。
5. バガテル「楽しい-悲しい」 WoO.54
ベートーヴェンの性格は愉快になったり、落ち込んだり、怒ったりと、なかなか感情の起伏が激しかったようです。
6. 「プンシュの歌」 WoO.111
プンシュとはワインに果汁やシロップを入れたもの。このお酒もベートーヴェンが好きだったと言われており、特に若い頃に飲んでいたとか。ちなみに作詞もベートーヴェン自身だと言われています。愉快な曲です!
※次回は12月に掲載予定です。
※過去の記事はこちらからご覧いただけます。Vol.1「ピアニストとしてのベートーヴェン」、Vol.2「弟子としてのベートーヴェン」、Vol.3「ロマンチストとしてのベートーヴェン」