日本の音楽教育を受けた人たちは、自分たちの経験してきたものが世界の中でどのような水準にあるのか、という視点で捉えることはあまりないかもしれません。私もイギリスに行くまでは、自分が受けてきた音楽教育が基準であり、それが「普通」だと思っていました。しかし、世界には私たちが捉えている音楽教育とは異なることがたくさんあり、その実態も様々です。ここでは、主にイギリス(イングランド ※1)の実態を中心に、日本の音楽教育と比較して考えてみたいと思います。
日本の音楽教育を受けた人たちは、自分たちの経験してきたものが世界の中でどのような水準にあるのか、という視点で捉えることはあまりないかもしれません。私もイギリスに行くまでは、自分が受けてきた音楽教育が基準であり、それが「普通」だと思っていました。しかし、世界には私たちが捉えている音楽教育とは異なることがたくさんあり、その実態も様々です。ここでは、主にイギリス(イングランド ※1)の実態を中心に、日本の音楽教育と比較して考えてみたいと思います。
日本では、ピアノが弾けたり、ヴァイオリンが弾けたり、というのは、主に学校外での習い事で培われる能力として、趣味や教養の一部のような位置付けがあると思います。ところが、イギリスの小学校や中学校で“音楽が出来る”ことは、少し異なる側面を持っています。
イギリスにはABRSM検定(Associated Board of the Royal Schools of Music: 英国王立音楽検定)やTrinity’s music exams(トリニティ音楽試験)などの音楽検定試験があり、歌唱や楽器ごとにグレード(級)が設定されています。それを受験して合格すると、資格のような効力があるので、中学校受験で奨学金をもらえる対象となったりします。日本で言う「英検」のような機能があります。つまり、学校教育の中で効力があり、児童・生徒はそれによって制度的に恩恵を受ける機会があるということです。
イギリスの学校では(主に私立の学校)、学校でピアノやフルート、ヴァイオリンのレッスンが受けられる学校が多く存在します。しかも放課後にレッスンを受けるのではなく、普通に授業が行われている日中に、レッスンを受けに生徒が授業を抜けてレッスン室にやってきます。日本では、ちょっと考えられない光景かもしれません。
音楽検定試験も、学校で受けることが出来たりします。これは音楽大学を卒業した人たちにとっても、雇用の機会や生活の安定性という点で貢献しています。
日本の学校では、小学校でも中学校でも週に1~2時間音楽の授業があって、歌を歌ったり、楽器を演奏したり、音楽を聴いたり、音楽をつくったりする活動が行われます。音楽集会や合唱祭なども学校内で開催されたりします。
しかし、イギリスでは、週に何時間音楽の授業をしなければいけない、という基準はなく、国定教科書もありません。先生が楽曲を選んだり教材を作成したりして、子どもたちはそれを使いますが、楽譜を使わずに学ぶ機会も多いです。
特に小学校では、耳から聴いて歌を覚える聴唱法が多く見られ、CMM(Creative Music Making:創造的音楽学習)の先駆けとなったイギリスならではの創作活動も多く取り入れられています。また、学校に音楽家が来て授業をするようなアウト・リーチの機会も多く、地域の音楽機関が提供するサービスとの結びつきも強いため、学校にも寄りますが多様な機会があることも特徴です。
一方で、日本では、中学校でも音楽の授業が毎週のように行われていると思いますが、実はイギリスには音楽の授業を行わない中等教育学校もあります。サセックス大学が行なった調査では、13-14歳(日本の中学1-2年)の生徒が必修で音楽を学習している学校は、2012-13年では84%でした。それが2017年の調査では、47.5%にまで下がっているのです ※2。なぜそのようなことが起きたのでしょうか。
日本には「主要5教科」という言葉があり、そこには音楽科は含まれておらず、どちらかと言うと音楽は学校教育の中で「学問」としての取り扱われ方が比較的低い印象かと思います。
イギリスでは中等教育の修了時にGCSE(General Certificate for Secondary Education)という試験があり、この音楽の試験は、日本の中学校修了時よりかなり学術的な内容が含まれています。楽典や作曲技法、音楽史なども含まれています。GCSEには必修科目と選択科目がありますが、音楽は選択科目に分類されています。
2010年、イギリス政府は英国バカロレア資格としてEBacc(English Baccalaureates)を発表しました。ここには、イギリスの学校教育での主要な科目が明示され、それらが各学校の評価基準にもなるとされました。そこには語学や科学、数学などは含まれていますが、音楽はリストにありませんでした。
つまり、どんなに学校で音楽教育を充実させても、政府からの公な評価の対象にならないとなると、学校によってはやはり主要科目の方を強化しよう、という流れになるのも時間の問題でした。おおよそ6割の学校は、このEBaccは学校での音楽学習にネガティブな影響を与えると回答し、実際に音楽をGCSEの試験科目として受験する生徒が減っています。
教育調査局(Ofquel)の調査によると、2015年はGCSEで音楽を受験した生徒は43,370人、2018年では35,895人に減少しました(図1) ※3。中学校でもクラス全員で3年間、音楽の授業が受けられる日本は、ある意味恵まれているのかもしれません。
このような状況に対してイギリスの音楽家や音楽教育者が黙っているわけにはいきません。音楽が学校から消えてしまうのではないか、と危惧しました。
ロンドン交響楽団の音楽監督であるサイモン・ラトルは2018年5月、英国タイムズ誌に、「すべての子どもが音楽に接することは生得権であり、音楽を始めとする芸術や文化の教育を充実させることは、子どもたちの将来性や新たな世界に向き合っていくこと、強いては世の中を良くしていくことに必要不可欠である」との声明を送りました ※4。
音楽の学習は大切である、と声を挙げ訴える音楽家や音楽教育者がたくさんいましたが、社会的にその理解を得たり、根拠を持って証明したりするのは容易いことではありません。音楽教育の研究者たちは「音楽を学習するとこんなに良いことがある」という事実を証明しようと、過去数十年にも渡って取り組んできました。
次回は、そんな研究の一部を紹介したいと思います。
専門:音楽教育学・音楽心理学