学び・教養
2022年04月28日掲載 / この記事は約11分で読めます
ヤマハ音楽教室創設以来、この事業を牽引してきた川上源一氏。1977年に川上氏の考えをまとめた『音楽普及の思想』が刊行され、ヤマハ音楽教育システムの理念やジュニア・オリジナル・コンサート(JOC)などの取り組みはさらに広く知られるようになりました。
翌年の1978年には5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』から6代目『ぷらいまりー』へと幼児科テキストが改訂。初のテキスト『幼児のオルガンの本』からおよそ20年の時を経て、幼児科のカリキュラムと指導法は「鍵盤ソルフェージュ」に結実しました。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
幼児科の歴史の転換点
今回の連載では1978年の幼児科テキスト改訂がテーマです。初のテキスト『幼児のオルガンの本』が編纂されたのは1959年でした(→本連載第4回)。以来、『幼児の本』『じゅにあー』『幼児のほん』『ぷらいまりー/せこんだりー』とバトンをつないできた訳ですが、通算6代目となる『ぷらいまりー』以降、テキスト名は単独『ぷらいまりー』が引き継がれていきます。
名前が同じであること。これは、大きな意味をもっています。ニュース番組などでたとえるならば、これまでの改訂はある特定の時間帯で数年ごとにメインMCと番組名を変えてきたようなものです。しかし、1978年以降は『ぷらいまりー』という長寿番組の中でMCを交替していくような形となります。つまり、幼児科創設からの約20年に比べると、6代目以降はテキストそのものの変化度は小さくなるのです。また、アーカイブプロジェクトを展開していた当時、6代目以降のテキスト改訂の中心を担った方々は皆、何らかの形でヤマハ音楽振興会(または関連団体)にまだ在籍されていました。そういった意味でも、幼児科の歴史上1978年は一つの区切りだったのだとわたしは判断しています。幼児科の理念のもとに初代~5代目までのさまざまな試行を経て、6代目『ぷらいまりー』において幼児科テキストの土台が形成されたという流れを押さえてみてください。
『ぷらいまりー』(4巻)の表紙
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『音楽普及の思想』の刊行
さて、初代テキスト『幼児のオルガンの本』が編まれるまでの経緯からも明らかなように、テキストが改訂・刊行される前にはそのための準備期間があります。6代目となる単独『ぷらいまりー』は1978年の刊行。それより前に改訂作業は進められており、指導法の見直し・整理も図られていました。
それらの作業と時期を同じくする1977年、ヤマハ音楽振興会から『音楽普及の思想』という本が発刊されます。著者は当時の理事長であった川上源一(1912-2002)。わたし自身も実体験がある訳ではありませんが、この連載を通読していただければ川上氏がヤマハ音楽教室の発展にどれだけの影響力があったか、雰囲気は感じ取っていただけるのではないでしょうか。『音楽普及の思想』には、それまで川上氏が内外で発信してきた音楽教室にかける想いなどがまとめられています※1。
川上源一氏(当時)
そもそもヤマハ音楽教室は、音楽の習い事と言えば専門家養成を目的とした個人レッスンが主流だった時代に始まりました(→本連載第3回)。川上氏は次のように述べています。
「もしヤマハの教育が、ただ単に天才の発見だけに目的をしぼってしまったら、たいへん大きな誤りを犯すことになります。大部分の子どもたちはごく普通の才能の持主で、けっして特殊な才能を持って生まれてきたわけではないのですから、こうした子どもたちにも、音楽の楽しさと、音楽を学んだことによって自分の生活が将来、非常に豊かなものになる機会をヤマハとして与えることができれば、これは少数の天才を発見した以上に、意味の深い仕事をしたことになります。」※2
いわゆる「ごく普通の子ども」が音楽を学ぶ意義を積極的に肯定する川上氏の思想が、ヤマハ音楽教室の先進性であり、世界中に広まった所以でしょう。なお、念のため補足すると、川上氏は優れた才能がある子どもがいたら、その才能を適切な環境の中で伸ばすことも重要であるとして、専門コース等も設置しています。1970年代後半は理念の面でも指導法の面でもそれまでの実践が集約された時期と見なすことができるのです。
「見つめ直そう、幼児科を」
改めて川上氏のまとめた『音楽普及の思想』のもと、1978年に幼児科が改訂され6代目テキスト『ぷらいまりー』が刊行されました。「ぷらいまりー」と名が付くテキストとしては2代目に当たります。ヤマハ音楽振興会教育部の編著で、この改訂では中村暢(とおる)氏が中心的な役割を果たしました。
中村氏は国立音楽大学を作曲専攻で卒業し、財団では「音楽指導スタッフ」(以下、指導スタッフ)として勤務していました。財団職員は大きく総合職と専門職の2種類に分かれますが、専門職としてヤマハ音楽教室の講師の採用・育成、ヤマハグループや特約店と連携して音楽教室のマネージメント、テキストの開発・制作を担うのが指導スタッフです※3。
中村暢氏 近影
中村氏らの口述回顧録によれば、1978年の改訂では「見つめ直そう、幼児科を」というコンセプトが掲げられました。時代背景として、当時は各地で大小さまざまなシンポジウム等が講師たちの手で開催され、指導法についてさかんに議論が交わされていました。また、ベテランの講師らによって組織された委員会もありました。そうした現場の声と全国の指導スタッフたちの意見が汲み上げられ、改訂に反映されたといいます。結果的に「ぷらいまりー指導ノート」と書かれた6代目の指導書は、歴代の指導書と比べても厚みのある構成になっています。
6代目『ぷらいまりー』から、幼児科の修業年限は2代目『幼児の本』以来の2年間に戻りました。より正確には、1976年には図のとおり幼児科の修業年限は2年に移行していたようです。今回の調査では1974~75年の指導体系図が発見されませんでしたが、幼児科修了後のコースとして「ジュニア科アンサンブルコース」と「子どものエレクトーンメイト・コース」が正式発足したのが1976年なので、おそらくそこから修業年限の変更が幼児科改訂に先行したと推察できます。また、これらの図にある「(音楽)基礎グレード」とはヤマハ音楽教育システムに基づく検定制度です。幼児科の学習成果の確認と今後の指針を確認するために設けられ、その後は先述の2つと「専門コース」、計3つの選択肢が用意されるようになりました。
「ヤマハ家庭新聞」第4号に掲載された指導体系(1976)
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「ヤマハ家庭新聞」第9号に掲載された指導体系(1978)
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年間カリキュラムの整備
「見つめ直そう、幼児科を」を合言葉に行われた1978年の改訂。そうして生まれた6代目『ぷらいまりー』時代の大きな功績は、これまでの幼児科での実践を集約したことでした。それをヤマハの用語では「鍵盤ソルフェージュ」(鍵盤楽器を教具として扱ったソルフェージュ教育の意味)と呼びます。
従来、ヤマハの指導法は模倣と反復を基本としながら「聴く」「歌う」「弾く」の相互関係から成り立っていました。中でも重視されてきた、「レパートリー」を通して鍵盤に親しむことと(→本連載第7回)、ハーモニー感覚を習得して即興的に音楽をつくれるようになること(→本連載第8回)。それまでは両者の配分やスピードがテキストによってさまざまでした。そこで6代目『ぷらいまりー』の指導では鍵盤に係るカリキュラムとハーモニー指導の整合性をとり、幼児科2年間の定着目標(何の要素をどこまで身に付けるか)を明確化するとともに、その成果として基礎グレードに合格できる水準まで到達させるよう系統立てて提示されました。
少し専門的に説明すると、レパートリーの調性はハ長調からト長調、ヘ長調、そしてニ短調、イ短調という5つの調を扱う。指遣いは、1指から5指以内で弾けるもので始め、徐々に指を広げ、2年目以降に指をくぐらせたりできるようになる。例えば1巻の《だいすきなパン》では片手3本の指だけでメロディを弾くことができます。後半の《リスのこもりうた》から両手奏が導入され、伴奏の形も単音から重音へ……というように、弾くこととハーモニー感覚の習得の両方が段階的にバランスよく学べるようカリキュラムが組み立てられました。その結果、例えば《おはなのワルツ》という楽曲は5代目『ぷらいまりー』では伴奏付けの課題として3巻に収められていたのに対し(このときは《ダンス》というタイトル)、演奏面での難易度から6代目では4巻に位置付けられるといったような変更がみられます。幼児が弾くようなシンプルな楽曲であっても、指導者がどう扱うかによってさまざまな意味付けが可能であるとわかりますね。
『ぷらいまりー1』より「だいすきなパン」冒頭(p.22)
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『ぷらいまりー1』より「リスのこもりうた」冒頭(p.34)
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音楽的な体験か反復練習か
これまでの連載でも言及してきたように、幼児科のレッスンにおいてテキスト上に可視化された教材は氷山の一角です。6代目『ぷらいまりー』の時代も模唱や聴唱は指導の基本であり続けました。しかし、当時の講師たちによるシンポジウム等でとりわけ議論の対象だったのは「子どもたちの聴音力を養うために効果的な指導法とは」ということでした。というのも、講師個々人あるいは地域によって指導法の傾向に多少の違いがあり、それをどう調整するかが論点の一つだったからです。現存する資料によれば幼児科の生徒数は1960年代に20万人を超えましたが、1980年時点の広告ではその他のコースも含め全国で65万人が勉強していると記載されていました。それだけの規模で教室展開すれば、さまざまな意見が起きるのは自然な流れだったのかもしれません。
中村氏によれば、聴音力を子どもが身に付けられるような指導を検討する際には大きく2つの方向性があったそうです。一つは、聴音力は音楽的な体験を重視することで身に付いていくという考え方。もう一つは、模唱や模奏のための短い素材をドリルのように繰り返すことが有効だという意見。国語であっても、漢字や文法を学ぶ際に本を読んでその世界観に没入する体験を伴わせることが重要なのか、確実に習得するには漢字ドリルなどでその練習を取り出して反復する必要があるのか、類似する難しさはあると思います。最終的にこの時代の指導書には、全国的に足並みをそろえるために模唱の断片的な素材を具体的に指導書に明示しつつ、音楽的経験を目的にまとまりのある素材を歌わせることも併せて行うよう方針が固められました。
カリキュラムの体系化、指導法の確立という点で一つの土台を形成した6代目『ぷらいまりー』。初代からのテキストの変遷をたどると、このテキスト単体でというよりは、これまでのテキストの試行錯誤とそれらを使用してきた現場講師たちの意見があって到達した景色であったとわたしは考えています。「見つめ直そう、幼児科を」というコンセプトも、どんどんと教室の規模が拡大する中で原点に立ち返り、幼児科として最も大切にしてきたものを再確認するプロセスだったのではないかと想像するのです。
- ※1 1986年には『新音楽普及の思想』が刊行しますが、内容は『音楽普及の思想』(1977)から基本的な部分がおよそ1割で、ほかはすべて新しい文章で構成されています。
- ※2 財団法人ヤマハ音楽振興会教育部「ヤマハ音楽教育システム幼児科指導書」1977年、p.4。
- ※3 詳細な職務内容などは職員採用の時期に併せてヤマハ音楽振興会の職員採用のページに掲載されます。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。