はじめまして。私は就学前の小さな子どもたちの学びの場の環境について、“音”という面から、そのデザインの可能性を探ることを研究テーマとしています。もともと音の研究がしたい、と思って研究の道を志したのですが、そのきっかけは大学生のときにたまたま参加したドイツ・ボン大学への短期留学での体験にあります。これが今の私の研究のモチベーションの中枢なので、少し紹介させてください。
はじめまして。私は就学前の小さな子どもたちの学びの場の環境について、“音”という面から、そのデザインの可能性を探ることを研究テーマとしています。もともと音の研究がしたい、と思って研究の道を志したのですが、そのきっかけは大学生のときにたまたま参加したドイツ・ボン大学への短期留学での体験にあります。これが今の私の研究のモチベーションの中枢なので、少し紹介させてください。
幼いころからクラシックピアノを習っていた私にとってドイツという国自体に興味がありました。しかし当時の私は音に疎く、音楽演奏会であってもぼんやりと聞いているだけ、積極的に聴いて楽しむというふうではありませんでした。ましてや日常の音についてなど考えにも及ばない、そんな音に真摯(しんし)でなかった私が、ボンの街を探索しているときに初めて音を聴くということと出会った瞬間を、今でも鮮明に覚えています。石畳の細い道脇に高い建物が並ぶ迷路のような街並みの中で、見えないどこかからバイオリン演奏が聞こえてきた瞬間でした。こんなふうに音楽を聴いたことは初めてで、思わず聞こえてくる音をたよりにどこで演奏しているのだろうと歩き回りました。そのころは、音響に関する知識、音環境という言葉、音に関する考えが頭にない状態で、ただ何か大きなショックを受けたことだけを覚えています。
このときの衝撃が、今ある聴くことへのあくなき探究心の種であることに気付いたのはずいぶん後のことでした。漠然とした音への興味から、“音環境”“音響”という言葉とサウンドスケープ※1・2という概念と出会って、人と音との豊かなかかわりについて研究する道を志しました。
自身の聴くこととの出会いの経験から、周りの音環境というものに興味を持つようになりました。そこで、「人が聴くってどういうことだろう」という漠然とした疑問を持ち、幼少期の子どもたちがさまざまな人や物とふれあい学ぶ姿から探れないだろうか、と保育の場における子どもと音とのかかわりを研究テーマとしたのですが、ここで サウンドスケープという概念について触れておきたいと思います。
スズムシの「リーン」という鳴き声から夏の夜の涼しさを感じること
車のクラクション、電車の発車音、目覚まし時計の音…など、いろいろな合図
身近なところに、音が人々にある意味をもたらしていることがありますね。また、
演奏会が始まりそうだから静かにしよう
電車の中では大声で会話しないこと
こうした音に対するマナーも、音環境の構成要因として大事なことでしょう。
ここで、人がいかに音環境とかかわるか、ということから音環境を捉えるサウンドスケープという概念を紹介します。サウンドスケープとはレーモンド・マリー・シェーファー(R. Murray Schafer)が提唱した「音の風景」という意味を持つ造語で、「個人、あるいは特定の社会によってどのように知覚され、理解されているかに強調点の置かれた音の環境についての概念である。従ってサウンドスケープとは個人あるいは特定の共同体や民族その他、文化を共有する人々のグループとそうした環境との関係によって規定される」※3、つまり、人と周りの音とを分けて考えずに音環境と人を文化という枠組みも含めた一体のシステムとして捉える概念です。たとえば青信号のときに流れる音は「横断歩道を渡れる」意味を文化が規定してその意味を持って人に聴かれます。そもそも信号という道具を持たない文化の人にとっては「単なる音」であり、「意味を持って聴かれる」こととは質的に異なります。人が音をどのように聴くか、という問いに対する重要な示唆を与えてくれる概念です。
少しそれますが、音の聴き方ということは騒音問題というところで非常に如実にあらわれています。サウンドスケープの概念でも騒音問題について指摘されていますが、たとえば「子どもの泣きわめく声が聞こえてきた」とき、「うるさくて仕方がない」のか、「◯◯ちゃん、今日はひどく泣いているけれども大丈夫かしら」となるのか。昨今の“人と人との騒音問題”は、単なる音の問題ではなく、人間関係や音の発し手・聴き手の心理状態、それぞれの背景にある問題などが複雑にかかわって、音の問題として出てきているのです※4。だから、「いかに聴くか」は、音の問題にとどまらず、大変大事な問題だと思っています。
子どもは大人といろいろな意味で音のきこえ方が違います。
1つ目は聴覚的なもの。子どもの聴覚は大変すぐれていて、特に高い音は非常によく聞こえている、といわれています※5。2つ目は聞く位置です。身体の小さな子どもは、周辺環境との位置関係が大人と異なります。たとえば幼稚園の保育室に立っている園児は、床面から近く物陰に隠れやすい、つまり周りのものからはね返ってくる音や回り込んでくる音の状態が大人とは違う環境で聞いていることになります。また、子どもは小さく囲われた「物陰空間」を好きなようでよく入り込んであそんでいますが、そうするとこの傾向はより顕著といえるでしょう。こういった違いは物理的に測定して確認できることです※6。3つ目は聴き方。聴き方の違いの要因としては、たとえばざわざわした環境の中である音を聴き取る、といった選択的注意※7、経験や個人の状態による影響※8、などが考えられます。
これは大変おもしろいことで、たとえば同じときに同じ場所にいても、子どもは違った音環境を聴いているかもしれない、ということになるのです。
子どもが具体的にどのように音を聴いているのかについては、まさに私の研究課題なのですが、子どもは大人よりも素直に音を聴いているふうに思います。いわゆる常識という枠組みにとらわれずに、また時として独善的に。きっと、大人には聴こえない音も、たしかに聴こえているのでしょう。子どもと周りの音環境に耳を澄ます、ということは、新たな世界を発見していく可能性を秘めているのではないでしょうか。
子どもと音、ということから少し広げて、子どもたち・大人たちが集う場として保育の場を考えてみたいと思います。保育の場は、実に魅力的なサウンドスケープ:子どもと音とのかかわりがあふれているように思います。このことを子どもの姿を想像しながら理解を深めたいと思っています。たとえばどんな場面があるでしょう。
寂しくて泣いているとき、友達や先生の優しい声がきこえてくる
絵本を読んでもらっているとき、先生のお話に引き込まれ、時にお部屋の外に耳を澄ませ、絵本の世界を楽しむ
木陰でみんなでおにぎりを食べているとき、そよそよと葉っぱの音がきこえてきて気持ちが良い
こういった場面での実践それ自体は、この場で、この子どもたちと、この先生とで、つくられている場、以外の何物でもなく、これを捉えるには、保育のあり方というような、背景にあるこの園の文化を含めて考える必要があります。子ども・保育者と、周りの音環境がどのようにかかわり合って場をつくっているのだろうか、という問いは、音楽的場面にとどまらない保育の一面を捉えることで、“聴く”ことの意味を広げて考えていけるのではないか、と思っています。
研究という形で子ども ― 主として幼児期の子どもたちとかかわっていくと、私の考えていた音という枠組みをぐいぐいと押し広げてくれます。子どもたちがくれる「ふとした気付き」は、いつも予想外のタイミングでやってきて、その場に居合わせ肌で感じる、まるで“衝撃波”のようなものです。だから、いつも調査のときは身体の神経をフル活用して感じ取る。普段は観察データをパソコン上で眺めながら、ひたすら向き合い、時に癒やされ、そんな日々ですが、フィールドでは生身の子どもたちとふれあえる今というときを大事にしています。
“聴く”ということ、それは、どんなことなのだろう。少し前の私はその定義に苦しんでいました。「話をきちんと聞きましょう」ということが教育的に大事とされていることはいうまでもないですが、ではどうやって人は“聴く”のでしょうか。これは「聞きなさい」といってできることでもないし、端から見て静かに前を向いているからといって聴いているわけではないかもしれない。そう考えていくと、“聴く”ということには単に音の刺激を、または言語情報を得る、という意味以上の働きがあるのでしょう。それはどんなことか…言葉で表現することが研究者としての務めでありながら、言葉にするとなんとも陳腐な表現になってしまいました。でも、実はこの意味を豊かにしていくことが大事なのだ…このことに明確に気付いたのが、ある幼稚園での音楽ワークショップに参加したときのことでした。園庭に響き渡るオペラ歌手の歌声、それに圧倒され子どもたちが“立ちつくす”姿。ともに音楽を奏で思いを感じとりながら音の世界に没入し、その場の参加者で共有するという感覚。子どもと保育者の日常保育でのかかわりという土台の上で起こった、奇跡のような場面でした。このときに、聴くということを深く理解していく、という世界があることを知り、同時に目に見えない音、だからこその力を感じました。
子どもは大人とは異なる音とのかかわり方を見せてくれます。聴く、ということ。意味を発見していく、ということ。この姿は子どもに限らず、広く人にとって学べる姿であると信じ、今後も宝島のような子どもたちの世界にかかわらせていただきたいと思っています。