私は大学、大学院、そして研究員となった現在も、音楽を対象とした研究をしてきました。初対面の人にこの話をすると「あなたも何か楽器は演奏されるのですか?」「音楽はご趣味で?」…という話が続きます。確かに私はピアノを弾きますし、音楽も趣味だと思いますが、研究者になろうと思ったのは―少なくともはじめの段階では―「音楽が好きだから」という理由からではありませんでした。
私は大学、大学院、そして研究員となった現在も、音楽を対象とした研究をしてきました。初対面の人にこの話をすると「あなたも何か楽器は演奏されるのですか?」「音楽はご趣味で?」…という話が続きます。確かに私はピアノを弾きますし、音楽も趣味だと思いますが、研究者になろうと思ったのは―少なくともはじめの段階では―「音楽が好きだから」という理由からではありませんでした。
私の専門は心理学で、学部1年生のときに必修科目の「心理学測定」という実験実習科目がありました。その中に、私が研究者を志そうと思った、ある実験がありました。心理学の基礎実験としてはオーソドックスなものです。片手には一定の重さのおもりを持ち、もう一方の手には違う重さのおもりを持って、「どちらが重いか」を判断する実験です。実に地味でつまらない実験に思えます。実際、実験をやっているときまではそうでした。しかし、この実験の結果を集計して、「2つのおもりの物理的な重さの違い」と「心理的に“より重い”と答える割合」をグラフで表し、図1のようなきれいなS字のカーブが描かれたとき、心の中でえも言われぬ興奮を感じたことを覚えています。私たちの心の中の出来事は、人によってバラバラで、規則性などないように思えますが、心理学の力を使えば「目に見えない心の中の世界」を極めて単純な数式で表すことができ、これほど明確に目に見える形にすることができるのかと―世の中にはこんなにも面白い世界があるのかと―感動したことを覚えています。これが研究者になろうと思った最初のきっかけでした。
そうして心理学に魅了された私は、「目に見えない心の世界」を「目に見えるようにする」ことで何か面白そうな話題はないかと思いました。当時、私は大学のピアノサークルに入っていて、楽譜通りにうまく演奏することができていなくても、何か感動が湧き上がってくるような演奏をする人がいることに気づいていました。「うまいかどうかは心が込もっているかどうかだ」というような言われ方をすることもあります。楽器を習っている人なら「もっと心を込めて!」という指導を受けた方もおられると思います。真面目に地道に練習を重ねてテクニックを磨いてきた人たちがいる中で、「心を込めるかどうか」で演奏の質が変わってしまうなんて、どうにも理不尽な話に思えました。この曖昧模糊(もこ)とした、「心の込もった」演奏というものを目に見える形にすることができたらこれほど面白いことはないと思いました。
そこで、Carl Seashoreという研究者による「Psychology of Music」という本を手に取りました※1。この本は1938年に出版されたものですが、今でも通用する素晴らしい研究のアイデアがつまっています。その中で最も知られている概念のひとつが「芸術的逸脱」と呼ばれるものです。これは、演奏者が「芸術的」に演奏しようとするとき、その演奏は楽譜上に記された音符をそのまま機械的に再現したものではなく、時々刻々と変化していく音楽に従って、テンポや強弱、音色などに「ゆらぎ」をつけたものとなるという現象を指します(芸術的逸脱の詳しい解説は正田・山下(2015)参照※2)。当時の私は、「それはそうだ、それは普段から自分がやっていることだ」と腑(ふ)に落ちた気持ちになりました。その一方で、テンポや強弱にゆらぎをつけるという、ある意味表面的な工夫だけで演奏が「芸術的」になるのだとしたら、それは「心を込める」という感情的な意味とはかけ離れているのではないかとも思いました。
そこで、私の卒業論文ではあるピアニストにラフマニノフの《音の絵》作品39-1と《前奏曲》作品32-5という2曲をそれぞれ「芸術的に」、「機械的に」、「誇張して」という3通りで弾いてもらい、それぞれの演奏でどのような表現をしたのかを、アンケートを中心とした心理的な分析と演奏の物理的な分析から調べる試みを行いました※3。さまざまな指標を取得しましたが、最も大きな違いが現れたのは、「それぞれの演奏でどのような感情を表現したか」という質問でした。《前奏曲》という曲を例にすると、「芸術的」に演奏しようとするときに、この曲の持つ「優しい」「いとしい」「穏やかな」「優雅な」「喜びの」「明るい」「情熱的な」といったニュアンスを演奏者が強く意識していたことが示されました(図2)。このことは、機械的に弾いても、誇張して弾いても、楽曲の表す感情を十分に表現することはできない、楽曲の豊かな感情は芸術的に演奏したときに最も表現される、と演奏者自身が感じていたことを意味しています。
そして、これらの演奏を録音・録画したものを、スピーカーやプロジェクターを通して鑑賞者に聴いてもらう実験を行いました。その結果、こうした複雑な感情的なニュアンスが「芸術的」な演奏で最もよく伝わることが明らかとなったのです※4。演奏者が表現しようとした複雑な感情的なニュアンスが、芸術的に演奏することによってより伝わるというのは、演奏をする人たちにとっては「さもありなん」なことだったかも知れません。それでも、同じ曲を異なるように演奏しただけで、このような複雑な感情の伝達の度合いが異なるというのは、やはり驚くべきことだと思いました。
これらの研究は一人のピアニストによるラフマニノフの演奏を対象にした事例研究ですので、ほかの演奏者や楽曲では異なる結果が得られる可能性もあります。ただ、ひとつの演奏をつぶさに分析することで、ここまで豊富な結果を得ることができるということを知ることができたのは、研究者を志す私にとっては非常に大きな経験でした(この演奏者の方には感謝してもしきれない気持ちでいっぱいです)。演奏者は、芸術的な表現を達成するために、その楽曲がどのような構造でできているのかを解釈し、時には作曲家が楽譜に込めた感情に想いをはせながら、楽譜に込められた作曲家のメッセージを読み解いているようです。「心を込めて」演奏することで、こうした楽曲の深い洞察に基づいて「このパッセージはもっと優しく…」、「クレシェンドはこの辺りからゆっくりと…」、「最後はブリリアントに…」というような微妙でかつダイナミックな表現上の工夫がなされていると考えられます。「心を込めて!」には、楽譜に記されたメッセージを自分なりに丁寧に読み解いてみなさい、というメッセージが込められているのだろうと思います。楽器を習っていて、先生に「心を込めて!」と言われて困惑されている方は、一度楽譜とよく向き合って表現を工夫されるといいかも知れません。
紹介できる紙面がなくなってしまいましたが、私はその後、大学院(北海道大学大学院文学研究科)の修士課程に進み、演奏者の身体の動きに含まれる「表現」の性質をモーションキャプチャという手法を使って調べました。さらに博士後期課程とその後の研究員を通して、「生演奏では演奏者と鑑賞者がどのようなインタラクションをしているのか」を調べる研究を行いました。現所属では、「音楽演奏を通して、人はどのように健康を得ることができるのか」という応用的な課題にも取り組んでいます。いずれの研究も、「2つのおもり」を比べたときと同じように、目には見えない人のふるまいを目に見える形にしたいという思いで進めてきました。これによって、音楽演奏のさまざまな現象を支えるメカニズムの一端を解明することにつながると考えています。
人のふるまいを「目に見える形」にする手法は心理学だけのものではありません。私は、2014年10月から半年間、イギリスの王立音楽大学(Royal College of Music)の演奏科学センター(Centre for Performance Science)で研究員をしていました。そこでは「パフォーマンス」をキーワードに、心理学・音楽学・工学・医学・教育学など、本当にさまざまな分野の専門家が所属していました。目に見えない音の変化は音響信号処理の手法で調べることができます。1/250~1/1000秒という微視的な身体の動きは身体運動科学やバイオメカニクスと呼ばれる分野の手法で調べることができます。身体の中での変化は生理学的な手法を用いれば調べることができます(遺伝子レベルでの研究もこれから出てくることでしょう)。このように、音楽演奏の研究は、さまざまな分野からの視点を統合し分野間で協働しあうことによって成り立っています。「演奏科学」という分野はまさにこうした学際的協働を目指しています。これからの日本でも、異分野協働型の「演奏科学」研究拠点を構築し、音楽演奏の研究を進めていくことがより一層望まれると考えています。