学び・教養
2022年05月30日掲載 / この記事は約11分で読めます
1959年刊行の『幼児のオルガンの本』から現行の『ぷらいまりー』(2006年~)に至るまで、ヤマハ音楽教室幼児科では8回の改訂が行われてきました。この連載最終回では、各テキストの特徴と幼児科の変遷をふり返ります。誰か1人の手によって開発されたのではなく、実践と検証を繰り返し、現場の講師たちの声も反映させながら結晶化されてきた幼児科のテキストと指導法。アーカイブプロジェクトを通じて見えてきたのは、川上源一氏の『音楽普及の思想』という“理想”と日常的なレッスンの“現場”の相互作用の中で最適な指導の在り方を模索し更新してきた、テキスト制作者たちの軌跡でした。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
幼児科の黎明期~成長期~発展期
およそ半年前に始まった本連載も、最終回となりました。今回は、これまで紹介してきた幼児科の歴史をもう一度概観することから始めたいと思います。
銀座店で子ども向けの音楽教室が試行されたのが1954年。当時社長だった川上源一(1912-2002)は銀座店の取り組みの全国展開を目指し、まもなくして金原善徳(1922-2015)らに教育と運営の両面から準備をするよう命じました。金原氏は32歳になる年でした(今とは平均寿命も働き方も違うとはいえ、この事実を知ったときは若い!と驚きました)。その後1959年に初のテキスト『幼児のオルガンの本』が編纂されてから今日に至るまで、8回にわたる改訂、9代の幼児科テキストが生み出されてきたことになります。
年表に、テキスト改訂の歴史をまとめてみました。視覚的にも明らかなように、『幼児のオルガンの本』(1959年~)から『ぷらいまりー(初代)/せこんだりー』(1972年~)までは数年ごとに改訂が繰り返されています。音楽教室の事業を牽引してきた川上氏が自らの考えを『音楽普及の思想』に総括したのは1977年。翌年の1978年の単独『ぷらいまりー(第2世代)』以降は、幼児科ではテキスト名がほぼ固定し約10年スパンの改訂になっています。幼児科の歴史においては、やはり1978年の改訂が一つの大きな節目になっていると考えられるでしょう。
1978年以前はどんな時代だったでしょうか。アーカイブプロジェクトではテキストができるまでの1954~1959年をヤマハ音楽教室の黎明期と呼んでいました。いわば“音楽教室前史”ですね。全社的・全国的な展開は1960年代に本格化しているので(→本連載第6回)、1959~1977年までの20年弱は“音楽教室としての成長期”と言えます。その間、海外へも進出し、1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会が設立して運営基盤が整いました。ヤマハ独自の検定制度であるグレード試験(1967年~)やジュニアオリジナルコンサート(JOC/1972年~)のような主要イベントも始まり、徐々に幼児科修了後のコースも試行・拡充されました。幼児科の修業年限が2年から3年になったのも特徴の一つでした。
幼児科年表
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1978年の幼児科改訂以降は、ヤマハ音楽教育システムが確立し発展を遂げた時期。幼児科の修業年限も2年に定められました。本連載第9回で掲載した1978年時点での指導体系と最新の状況を並べてみても、幼児科の前後のコースは変化していますが、幼児科の位置付けは変わっていません。専門的に学びたい層に向けたコースなどもありますが、ヤマハの教育理念はあくまで少数の天才を育てるのではなく、将来的に音楽によって生活が豊かなものになる可能性をすべての子どもたちに拓くこと。幼児科はそのための土台づくりという役割に位置付けられ、音楽的感性と音楽基礎能力を育て、音楽表現力の素地をつくる指導目標が掲げられています。テキストの変遷において印象的なのは、子どもたちが“楽しい”と感じられるかどうかを追求する指導方針が初代テキスト時代にすでに示されていたことです。それが、何十年も続く取り組みにヤマハ音楽教室が育った大きな要因の一つだろうとわたしは考えています。「好きこそ物の上手なれ」で、“音楽って楽しいんだ”という実感がもてれば、ピアノ以外の楽器に興味関心が向かうケースも少なくないように思います。
「ヤマハ家庭新聞」第4号に掲載された指導体系(1978)
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今日のヤマハの指導体系
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幼児科の指導を編み出したのは誰かという問い
さて、本連載の第2回では「音楽教室の創始者は誰かという問い」について書きました。少し視点を変えてみます。結局のところ、ヤマハ音楽教室幼児科の指導を編み出したのは誰だったのでしょうか。
今日、国内外でさまざまな教育メソッドが広まっています。通常は、それらを考案した特定の音楽家や教育者・研究者の名前とセットで知られています。リトミックはエミール・ジャック=ダルクローズ(1865-1950)が、オルフ・シュールヴェルクはカール・オルフ(1895-1982)が、スズキ・メソードは鈴木鎮一(1898-1998)が生み出したというように。しかしヤマハ音楽教育システムの場合、音楽普及の思想は川上氏によるものですが、彼がテキストや指導法をつくった訳ではありません。この匿名性をどう捉えるか、お話を進めます。
これまで繰り返し述べてきたとおり、幼児科史上最も長くテキスト名に用いられているのは『ぷらいまりー』です。特に、1978年改訂で誕生した『ぷらいまりー』(6代目テキスト)はそれ以降のテキストの大元になっていると判断して差し支えないでしょう。教育理念や主な指導方針などは1950年代から引き継がれてきたとはいえ、初代『幼児のオルガンの本』(1959年)や2代目『幼児の本』(1960年~)と現行の『ぷらいまりー』(9代目テキスト)の両極を並べたら、それなりに内容が変わってはいるのですね。
アーカイブプロジェクトを総括して考えられることは大きく2つあります。一つは、確かに『ぷらいまりー』は幼児科テキストとしてのスタンダードに収まりましたが、初代から5代目までのテキスト改訂の積み重ねから内容が洗練されて編み出されたものだということ。音楽教育的な面を詳細に分析すると、教材に用いる楽曲の素材、難易度、指導項目のバランスなど複数の観点から従来の実践を踏まえ各テキストで最適化が試みられています。こうした意味において、幼児科のテキストは制作の中心になった全編集責任者の協働によって生まれたと答えられると思います。
さらにここでもう一つの重要なポイントがあります。それは、いったんテキストができた後も現場の講師たちとの議論や研究を経て、柔軟に指導法を変更してきたと複数の証言が残っていることです。現場の声を吸い上げ反映させるサイクルには、テキスト等の研究開発と講師の育成をどちらもヤマハ独自に行ってきた強みが活かされています。それぞれの時代でテキスト編纂者を含む指導スタッフと、実際の指導に当たる先生方の両方の視点を入れながら幼児科の指導の多角的な検討が可能だった訳ですね。
この音楽教育メソッドの生みの親は〇〇です、とシンプルに言える方が便利なときもあるかと思いますが、結論として幼児科はそうとは言い切れない。しかし、先人たちからの学びを引き継いでいく縦の人のつながりと、同時代に指導に携わる人びとの横のつながりの両軸から指導法を構築、洗練されてきたところがヤマハ音楽教育システムの特長を形づくっています。
こうした結論は、数多の史料と口述回顧録から導き出されました。本連載でご紹介してきた、金原善徳、松本洋二、高橋正夫、若松祐子、戸塚きん二※1、石川源四郎、村川千秋、山村(氏原)和美、中村暢、森内秀夫、中山洋、水戸瀬秀の各氏、本プロジェクトにご協力くださったヤマハOBOGやご家族、仲介してくださった全国の楽器店や関係機関の皆さまに再度心からの感謝を申し上げます。
6~9代目テキスト『ぷらいまりー』の制作中心者ら
2024年には70周年を迎えるヤマハ音楽教室。幼児科の最新の改訂は2006年です。それ以来、この16年で東日本大震災を含む数々の自然災害が起こり、環境問題は深刻化。インターネットは日常生活に欠かせないインフラとなって子どもがスマートフォンをもつのも当たり前になりました。時代とともに変わるものと変わらないもの。幼児科テキストの変遷は、その両方が大事であると示唆しています。
エピローグ ―よろこびを未来へつなぐ―
第1回で述べたとおり、もともとこの連載のタイトルは、『よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』(1964年)という本へのオマージュとして付けました。本の中で詩人の谷川俊太郎氏が、ヤマハの生産するピアノ、エレクトーン、ボート、オートバイなど「そのどれひとつをとりあげてみても 生きるよろこびと無縁のものはない」(pp.10-11)と綴っているんですね。
本連載の執筆に当たりアーカイブプロジェクトの記憶を呼び戻そうとしたとき、自分の中には漠然としたイメージが浮かびました。プロジェクトを推進していた当時、たくさんの方々にお会いしましたが、幼児科の教育についての語りは「音楽の楽しさ」「音楽するよろこび」と結び付いていたな、というイメージです。それで連載のタイトルはほとんど迷わずに決めました。
また、『よろこびをつくる』は「企業の現代史」シリーズの一環です。あとがきには、現代の企業にとってステークホルダーとの関係性が重要だと前置きした上で、次のように書かれています。
「しかし、従来の社史・企業の記録は、ごく限られた人々にしか読まれておりません。今日ほど企業と社会をむすびつける社史・企業の記録が広く要求されている時代はありません。そこで、現代の企業の全貌を浮き彫りにする立体的編集をもって、このシリーズは企画されました。」※2
50年以上前に書かれた文章であるにもかかわらず、社史や企業の記録の扱いの点では、今も通用するのではないかと感じました。アーカイブズをどう社会に還元していくかは、本プロジェクトの宿題の一つだと思ったのです。他方、一般的な企業の取り組みと音楽教室とでは、説明する難しさに質的な違いがあるとも認識しています。さらに音楽教育の中でも、例えば細かいパッセージでも指が動くようになったかなど演奏技能面の成長は(ある年齢までは)外から見ても比較的わかりやすい。数量化、可視化しやすいものは比較的説明もしやすい。ですが、幼児科の掲げる音楽的感性や基礎力などは抽象度が高く、それこそ全貌を明らかにするのはとても難しい。外部研究員という立場に役割があるとすれば、ヤマハ内で“秘伝”のように共有されてきたものごとを、関係者でもなくヤマハ音楽教室の生徒でもない方々にも伝わる形に翻訳することだったのかもしれません。『よろこびをつくる』のあとがきで言うところの“立体的編集”です。
ヤマハ音楽教室では初代テキストの頃から一貫した教育理念をもちつつ、歴代のテキスト制作中心者が時代に合わせてテキストと指導法を組み合わせ、幼児科をより魅力あるものにしようと変容させてきた。おそらく、これからも柔軟に変わろうとしていくであろう教育の在り方が、歴史的な流れを知ることでより興味深いものになるよう願っています。
歴代幼児科テキスト
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- ※1 戸塚氏のお名前(きんじ)の「きん」は、正しくは漢字で土へんに力と書きます。
- ※2 『企業の現代史41 よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部、1964年、p.250。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。