第1回から3回までは、科学的に確かめられていることを中心に述べてきました。今回は科学的厳密さからは少し離れますが、音楽の鑑賞や解釈について私が考えていることを紹介したいと思います。
第1回から3回までは、科学的に確かめられていることを中心に述べてきました。今回は科学的厳密さからは少し離れますが、音楽の鑑賞や解釈について私が考えていることを紹介したいと思います。
作曲家は作品の中に、さまざまな想いを込めます。意識するもの/しないもの、言語化されているもの/いないものの違いはありますが、作曲者からのメッセージが作品に込められています。もちろん、作曲者との想いとは関係なく、作品はそれ自体が独立した存在として価値をもちます。作曲家が生活のために依頼者の要望に応じて作った曲が、歴史に残る傑作となることは珍しいことではありません。一例をあげましょう。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」は、特に第2楽章の澄み切った流れるような美しさから、200年余りを経た今日も多くの人の心を捉えてやみません。しかし、モーツァルト自身はこの曲の作曲にはあまり乗り気でなかったようで、知人への手紙の中で「やる気がないまま作曲していると、出来上がりもパッとしない」というような意味のことを書いています。つまりモーツァルトの想いとは裏腹に、出来上がった作品は高い価値をもつに至ったのです。従って音楽作品のもつ価値とは、作曲者自身が曲に込めた想いと、出来上がった曲自体が有する価値とが合わさってできたもの、ということができると思います。
素晴らしい音楽を聴くと、鳥肌が立ちゾクゾクッと寒気が走り、ときには涙があふれます。この現象を“感動”といいます。上記を参考にすると感動とは、作品のもつ価値・意味が分かる瞬間ということができます。同じようなことは、演奏家が曲を演奏するときにもみられます。即興演奏を除くと、演奏家は曲を練習するときに曲の構成を考え、音量や音色を調節し、その曲の“あるべき姿”を追い求めます。その作業を“解釈”といいます。そうこうしているうちに曲全体が“まるで一枚の絵のように”理解できる瞬間があります。つまり解釈とは、曲全体の価値・意味が見えた瞬間のことをいいます。感動も解釈も、能動・受動の違いはあれど、曲の価値と意味を直感的に理解するという点では同じです。では、より良く鑑賞し解釈するために、私たちは何ができるでしょうか?
ヒトの意識は、膨大な無意識を背景に存在します。たとえば、閾値(いきち)以下の刺激を与えることにより、刺激の存在に気付いてすらいないにもかかわらず、その人の行動に影響を与えることができます。これをサブリミナル効果といいます。映画やテレビ番組の中に商品のコマを紛れ込ませるなどがそれで、日本では広告目的の使用を禁止されています。また、右頭頂葉の障害により左半分の空間が分からなくなる“半側空間無視”の患者は、分からないはずの左視野に呈示された刺激について、患者本人は気付いていないながらもある程度まで脳内で情報処理しています。つまり、言葉や行動となって表されたものは、私たちの脳内で行われていることの氷山の一角なのです。
作曲者が曲に込めた想い、あるいは完成した曲が自ずからもつに至った価値をわれわれが理解するには、どうすればいいのでしょうか? 最終的には直感により降ってくるものだから、坐(ざ)して何もせずただ待ち続ければいいのでしょうか? 違います。直感が起こりやすい状況に脳を持って行くことが必要です。ヒトの意識は膨大な無意識に支えられているといいました。作曲も同様です。楽譜となって現れる前に、形をもつに至らなかった膨大な想いが作曲者の頭の中にはあります。おそらくそれは、作曲者の脳内の無数ともいえる神経ネットワークの中に表現されています。作曲者の有形・無形の想いをわれわれがくみとるためには、われわれの脳を作曲者の脳に近づけることが大事です。つまり、作曲者がその曲を作曲していたときの脳と同じ状態に、われわれの脳を持って行くことが大切なのです。そのためには、感受性を豊かにして楽譜と音からもたらされる情報を細大漏らさずキャッチすることはもちろん、作曲者が生きた時代の文化、社会、歴史、あるいは作曲者が用いていた言語、有していた知識、目にしていた景色など、作曲者が見て聞いて知っていたであろうことについてできるだけ多く知っていることが望ましいです。音楽の鑑賞や演奏において、楽譜以外のことを勉強する意味は、まさにこの点にあるのです。
良い鑑賞と解釈は、聴き手の脳に作曲者の脳を再現することである。