子育て・教育
2020年12月10日掲載 / この記事は約11分で読めます
「非認知能力と音楽」シリーズでは、子どもの発達に関するキーワード“非認知能力”をめぐるさまざまなトピックを専門家の先生が解説します。今回のゲストは志村洋子先生(博士(教育学) 、埼玉大学名誉教授、同志社大学赤ちゃん学研究センター嘱託研究員)。東京藝術大学の声楽科を卒業した後、乳幼児期の音声や子どもの音響環境に関する研究を展開。まさに“声”のエキスパートである志村先生から赤ちゃん研究の最前線を伺います。
連載
赤ちゃんの「声」と向き合って――志村洋子先生に聞く
「マザリーズ」の不思議
「マザリーズ」は小さくて愛しいものへの声かけ
赤ちゃんに話しかけようとするとき、大人は知らず知らずのうちに独特の話し方をすることが知られています。この話し方「マザリーズ」は、英語のmother(母親)からつくられた言葉ですが、そもそも父親やそれ以外の大人からの声かけも「マザリーズ」と言ってよいのでしょうか?家族の在り方は多様化しています。
取材はオンラインで行いました
――マザリーズは、「mother(名詞:母親)」に「-ese(接尾:~語)」が付いた言葉です。「母語(ははご)」や「母親語」など日本でも翻訳が試みられましたが、適切な響きがなく「マザリーズ」で一般化されてしまったのだと思います。その過程において、養育する者は母親や周囲の大人だけではなく、きょうだいも赤ちゃんに関わっている、といった議論がありました。そこで、赤ちゃんに語りかけをする相手がどんな関係であろうと、赤ちゃんに対して非常に親密な語りかけであるマザリーズを「Infant Directed Speech」、頭文字をとってIDSと表す考え方が提唱されました。
それでも最近では、「IDS」と表記する文章は少なくなり、「マザリース」が一般に理解され、乳幼児を前にして自然と大人が発してしまう話し方を「マザリーズ」と言って問題ない状況です。この言葉が指すのは、決して子どもを産んだお母さんに限るという意味ではなく、性別や年齢に関係なくどのように子どもに声かけをしているかということです。マザリーズは子どもの周りにいる人だったら誰でもできる語りかけ。小さくて愛らしいものに対して、ただ「いい子ね」と言うのではなく、少しゆっくりしたテンポで語尾を上げて抑揚を大きくしたり、ゆっくり話しかけて、「いい子だねぇ⤴」と言ったり、リズムパターンを変えたりして、その子どもの興味を惹くように少し大袈裟に話したりすることです。これは、歌いかけているように聞こえることもありますね。
赤ちゃんはいつから聞いている?
3歳以降の子どもたちへの教育のねらいと内容が、幼稚園・保育所・認定こども園で共有されるとは、何を意味するのでしょうか。
写真提供:PIXTA
――赤ちゃんは母親のおなかの中で「聞く」力をほぼ完成させて、生まれてきます。そして、「聞く」力は、私たち大人の聴力と比べるととても優れた力であるとともに、まだ未熟な部分があることも分かってきました。最近の胎児研究では、胎内の様子をいわゆる3Dなどでもリアルタイムで観察できるようになり、出生までに「人間が持つ五感」にかかわる能力を入念に準備していることも知られるようになりました。
「聴覚」については、赤ちゃんの耳は器官としては妊娠5~6週には「耳」のもととなる穴ができ、脳の形成と合わせて準備が始まります。しかし、耳の機能の完成は、聴神経が出来上がり、それが「脳」と結ばれる頃の20週~21週ごろになり、さらに24週以降は聴覚の機能が一応そろうことになります※1。母親が聞いている音は胎内にもほぼ届くので、赤ちゃんも一緒に聞いています。特に母親自身の声は、空気を通しての伝搬だけでなく、身体を通しても伝わるので「やや歪んだ」音ですが、音量は豊かに届いていると思われます。例えば、新生児がお母さんの声を聞くと、他の人の声にはあまり反応しないのに、お母さんの声が聞こえてくると目を開けたり、手を動かしたりするなど反応することもあります。これは、やはり胎内でお母さんの声を聞いた経験によるからです。そのお母さんのもつ声のリズムや抑揚、そういう特徴をすべてわかっているのだろうと考えられています。
また、最近の胎児研究の成果では、五感がどのような順で発達するかもわかってきました。まず最初に培われるのは「触覚」です。お腹の中で子ども(胎児)が自ら動き、子宮内の壁(へき)をあちこち触っているのが3Dでわかります。触覚の次に培われるのが「聴覚」です。胎児は5ヶ月の間に周囲や自分の身体などを触りながら、その変化を感じるとともに音を聞いているということです。大人であればモノを見たり聞いたりしてから動きますが、感覚が育つ順番で「見る」は最後なんですね。この順番、つまり「さわる」と「きく」が最初に育ってきたことをお伝えしたいと思います。
さらに赤ちゃんは、お腹の外界に出てきたときにはもう声の個人性(その声が誰なのか)もわかっています。マザリーズの特徴以前に、声を聞いてその人が誰かであるかがわかるということですね。これが最も大事だと思います。胎内では優しいイントネーションの柔らかい語りかけも、もしかしたら夫婦間で喧嘩しているときのすさまじい声も体験している。その人がどういう状況で声を発しているかという感情性を聞く、実は赤ちゃんはその力を培われた状態で生まれ、かつ生後1年の間にそれをさらに花開かせます。このことが非認知能力とも関わっており、周囲の人のマザリーズがどんな役割を果たすか、想像していただけるのではないでしょうか。
「マザリーズ」は難しい
胎内で聴覚は発達し、赤ちゃんは生まれたときには誰の声か聞いてわかる。マザリーズによって、お母さんの声の個人性や感情性がより赤ちゃんに伝わるということだとすると、仮に養育者がマザリーズを使うのが難しい状況の場合は何が起こり得るのでしょうか。
――2018年にマロックとトレヴァーセン編著の『絆の音楽性 つながりの基盤を求めて(原題:Communicative Musicality)』という訳本が出版されました。この中には、鬱の症状のある母親、それから難民の母親など、たいへん過酷な環境で新生児を産んだ母親のマザリーズに関する研究が紹介されています。この章の執筆者は日本の方ではありません。
写真提供:PIXTA
ご存知のように、生まれてからの赤ちゃんは泣くだけではなく、ご機嫌な時にはシンプルな声を出して伝えます。赤ちゃんが声を発したとき、普通の状態であればお母さんは「あ、なんか言ってる」「どうしたのかな」と反応します。しかし、その反応が返ってこないと赤ちゃんは徐々に声を出すのをやめてしまう傾向があります。この訳書の中では、難民の母親は出産後、マザリーズを赤ちゃんに返すことができないこと、また赤ちゃん自身も声を出すことをしなくなる傾向が示されました。
赤ちゃんにとって、呼べば答えるというのが重要なポイントで、赤ちゃんの声が「何かやり取りしようよ」と言っても、日々のさまざまな困難によって母親が困難性を抱えていると、マザリーズはいつでもできるというものではないことが示されました。この章には、そうしたことが詳しく述べられています。
また、文化圏による違いもない訳ではありません。アフリカのサン族の子育てを研究していらっしゃる高田明先生(京都大学教授)によれば、その地域では子育ての中で語り掛けをあまりしない。その代わり、部落の人々が常に歌っているリズムパターンで赤ちゃんを縦抱きにして揺する映像を見せて頂き、衝撃を受けました。(日本であれば揺さぶりっこ症候群が心配されますし、母親だけでなく順番に色々な人が赤ちゃんを抱き、休まずゆするのも驚きでした)マザリーズによる語りかけは多くの言語圏、文化圏に見られますが、世界中の皆がやってる訳ではないと思っていただいた方がよいかもしれませんね。
赤ちゃんファーストでいこう
「絆の音楽性」という本のタイトルですが、音楽と、人と人とのつながり(絆)の関係について教えてください。
――『絆の音楽性 つながりの基盤を求めて』を訳したとき、監訳者の皆さんと話していたのは、私たちはなぜ音楽を好み、何気なく歌うなど、なぜ音楽を手放さないのだろうかということでした。
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勿論、赤ちゃんが周りの人から投げかけられた音や音楽に反応するからといって、音楽が「好き」なのかはやはりわかりません。近年の研究によって、赤ちゃんにはメロディラインがある音楽が好まれる、赤ちゃんによく見られるリズムパターンがあると示されても、赤ちゃんがどう受け止めているかまではわからない。でも、これだけ世界に人間が増えても、音楽はみんな手放さず多種多様な形ですが、楽しんでいます。
また、例えばベッドに寝かされている小さい子どもが、枕元に置かれた起き上がり小法師の玩具をつついて、♬ころーんころーんころんころん♪と音を鳴らそうとしている姿を見ると、飽きずに鳴らす姿には音を聞く楽しみを既に持って生まれていることを感じてしまいます。ただ、音や音楽を用意さえすればいつも子どもが喜ぶかというと、そうではないと思っています。きっと小さい子どもでも必要な音・音楽と必要ではない音などがあり、その子が何を求めているかは一人ひとり全く違うのだろうと。
子どもの反応をよく見ている養育者は、一度その子が気に入ったものでも、ずっとそれを続けるのではなく、いろいろなことを試して子どもの楽しみ方を何気なく見ています。音の出るものでも、子どもの発達に伴って、気に入り遊ぶ方法等は変化しますので、違ったかかわり方ができるような配慮は結構重要と思います。
また、保護者の方や保育士さんたちには、「赤ちゃんファーストで」とお話しています。つまり大人からの働きかけの前に、赤ちゃんや子どもが最初でありたい。子どもがどうするのか、どうしたいのかを見てから、動いたり動かなかったりしていただきたいと思います。子どもがやりたくない時に、いくら何かをやれと言っても難しいですね。音楽教室のグループレッスンでも、へそを曲げてしまっている子どもがいたら、ベテランの先生だとそれを見抜いてわざわざその子と揉めて無理やりやらせるような流れはあまりなさらない。ただ、これまで大学で幼稚園教諭と保育士の養成にずっと携わってきましたが、子どもの「やってみたい」想いの変化などを見抜くのはとても難しいです。
大切なのは、やはり一人ひとりが違うという意識だと思います。マザリーズだって、好きな子もいれば、もう大人のように話しかけて欲しいと思う子もいるかもしれませんしね。マザリーズのメロディラインを好んでいるように思っても、どこかでそれに飽きたという合図が子どもから出てくるでしょう。相手の反応を見てその合図をつかむことが重要と思っています。
- ※1 小西行郎.「もっと知りたい,おなかの赤ちゃんのこと」, 赤ちゃんとママ社, 東京11-77,(2007).
文・編集:小山 文加(おやま あやか)
(当連載は2020年9月1日に取材した内容をもとに作成しております)
→「2.音の聞こえ方のしくみ」につづく(全3回連載予定)
◇プロフィール
志村 洋子(しむら ようこ)
埼玉大学名誉教授/同志社大学赤ちゃん学研究センター嘱託研究員
博士(教育学)東京藝術大学音楽学部声楽科卒業 東京藝術大学院音楽研究科修士課程修了 1978年より埼玉大学教育学部講師、助教授、教授を経て、2016年より埼玉大学名誉教授 現在、日本赤ちゃん学会常任理事、日本子ども学会理事
主な研究分野は、乳幼児の歌唱音声の発達研究、乳児音声とマザリーズ音声の音響分析的研究、保育室空間の音環境に関する研究、騒音環境が乳幼児期の聴力に及ぼす影響に関する研究。主な著書に『はじまりは「歌い合い」』(単著・私たちに音楽がある理由・音楽之友社2020)、『乳幼児の音楽性をめぐる研究最前線』(共著・音楽教育研究ハンドブック・音楽之友社2019)、『絆の音楽性―つながりの基盤を求めて―』(共監訳・音楽之友社2018)、『乳幼児の音楽表現―赤ちゃんから始まる音環境の創造―』(共編著・中央法規2016)、『運動・遊び・音楽』(共著・中央法規2016)、ほか多数。