学び・教養
2019年09月12日掲載 / この記事は約8分で読めます
宇宙の理論と音楽の世界。一見すると、これらの領域は互いにまるで関わりがないように感じる方もいるかもしれません。しかし、理論物理学者である佐治晴夫先生は、オルガンやピアノを奏でて朝を迎え、今や金子みすゞの詩に曲を付けてしまうほど。さまざまな境界、枠組みを超えてゆく、佐治先生の探求心のルーツを伺います。
連載
見えない世界にまなぶ-佐治博士の宇宙・音楽・未来へのまなざし-
すべて“ひとつながりの世界”――音楽、数学、そして物理
音楽と数学はとても近いところにある
佐治先生は「数学や天文学などと同じ、音楽もリベラルアーツの一つとして考えるべきだと思います」と語り始めました。
――やはり音楽というのは、まだ非常に誤解が多いですね。一般に、娯楽という意味で皆さん音楽を考えているけれども、僕はリベラルアーツ※1の学問の一つとして音楽を考えるべきだと思っています。リベラルアーツの科目には何があるかというと、論理学や修辞学、数学などがあげられます。そこに天文学も含まれます。それから音楽も入ってきます。もともと音楽は学問であったということですね。
なぜ音楽は学問だったのか。それは、実は人類の進化と深く関わっています。人類は知性を獲得して、天空の動きに興味をもちました。カント※2は『実践理性批判』の中で、こう述べています。「自分の心を動かすのは天空の規則正しい星の動きである」。そこに人びとは神の存在を見出したのでしょう。「これだけ規則正しい宇宙があるならば、そこには神の御技があるのだろう」と。そして、音の中にも同じような規則正しい性質があるということから、音楽と天文学はリベラルアーツに位置付けられたという訳です。
「月光の曲」と音楽との出会い
現在では、科学や芸術の学際的な分野として「数理芸術学」を提唱する佐治先生。音楽に親しむようになったのは1940年頃にさかのぼるといいます。当時の小学校の国語の教科書に掲載されたベートーヴェンのお話を知ったことが、一つのきっかけとなりました。そして、運命的なパイプオルガンやバッハの音楽との出会いは、戦争中のできごとでした。
――僕が音楽に関心を寄せるようになったのは、戦争が背景にありました。太平洋戦争のさなか、小学校が尋常小学校※3と言われていた兄の時代に使われていた、今で言う国語の教科書に出会ったのです。教科書には「月光の曲」※4というお話が載っていました。作り話ですが有名なものです。「ある月の美しい晩のこと、ベートーヴェンが散歩をしていると、貧しい家の中からピアノの音が聞こえてきた」と始まります。「ピアノを弾いていたのは目が見えない女の子だった。ベートーヴェンは少女にピアノの手ほどきをしようとするが、ランプの油が切れて家の中が暗くなってしまう。その時、月の光が鍵盤をいっぱいに照らした。そこでベートーヴェンがじっと考え、つくられたのがピアノソナタ 第14番 嬰ハ短調『月光』である」というお話です。それを読んで、子どもながらに得も言われぬ感動を覚えたんです。ベートーヴェンの月光というものが僕の頭の中に入り込んで、音楽というか、ピアノというか、そういうものに何か惹かれるようになりました。
しかし、戦時中は、男の子がピアノのお稽古をするといった時代ではなくなっていきました。僕が小学校に入ろうという年に、尋常小学校は国民学校という名称に変わり、その年、昭和16年、1941年に太平洋戦争が始まったのでした。
太平洋戦時下で聴いたパイプオルガン
日本軍による真珠湾の奇襲攻撃で、街中では人びとが万歳を言いながら提灯を掲げて歩いていた時代。日本は戦争一色に染まっていきます。
――僕のクラスの担任の先生は「日本全土が焼き尽くされるだろう」と考え、クラスの全員をプラネタリウム※5に連れて行ってくれました。そこで初めてプラネタリウムというものを目の当たりにして、広大無辺な宇宙への畏怖と感動がいりまじったような気持ちから、星への興味が芽生えたんでしょうね。それと相前後して、父が「今、日本にパイプオルガンは数台しかない。今のうちにパイプオルガンを聴いておきなさい」と言い、兄に連れられて日本橋の三越に行きました。
1910年当時三越に設置されていたオルガン
(日本橋三越様ご提供)
当時の三越の1階には売り場がなく、吹き抜けのホールに椅子が並べられ、2階部分にパイプオルガンが置いてありました。まさに教会の造りそのものだったんです。そこに行って、初めてパイプオルガンを聴きました。パイプはカーテンの裏側に隠されていて、演奏台だけが見えていました。そうすると、オルガンを弾くたびにカーテンがゆらゆらと揺れます。それを不思議に思っていたら、兄が「空気で音が鳴っているんだよ」と教えてくれました。いろいろな高さの音が鳴り、あちらこちらのカーテンがゆらゆらして、とてもきれいでした。それが強く印象に残っています。
そこで何を弾いていたかというと、軍歌です。《軍艦マーチ》と《海ゆかば》※6ははっきりと覚えています。それから、落下傘部隊を讃える歌《空の神兵》※7。その合間に、何かわからないけれど、不思議な音の音楽が鳴りました。兄が「あれがバッハだからね」と僕にささやいた。それが、パイプオルガン、バッハとの初めての出会いでした。
音楽への憧れと研究の萌芽
少年時代、都内で暮らしていた佐治先生。1942年4月18日、東京の空に突如見慣れない飛行機が現れ、佐治先生の目の前を超低空で、現在の中央線と西武新宿線の間にある青梅街道沿いの閑静な住宅街の上空を飛んだといいます。佐治先生がそれまで見たことがなかったという形状の機体をもった飛行機は、米軍の爆撃機B25でした。日本全土を焼き尽くした長距離爆撃機B29が開発される前の飛行機で、その特攻攻撃は東京を爆撃した後は中国大陸に不時着覚悟で敢行されました。
――今日でもテレビなどで大きく報道される空襲は(1945年)3月10日の東京大空襲ですが、本当の東京の初空襲というのは、日本が戦争を始めてからほんの数か月も経たないうちに行われたんですね。おそらく東京を含め、日本中が火の海になるだろうということがあったから、担任の先生や父はプラネタリウムやオルガンを聴くことを勧めたんだろうと思います。
戦後、音楽に憧れて中学生になってから、音楽学校の入学試験問題集を見たことがありました。しかし、何がなんだかさっぱりわからない。これは無理だなと思いました。一つだけ今でも覚えているのは、「異名同音※8とは何かを説明しなさい」という問題です。そんなに難しいものではなかったはずですが、当時の僕はそれすらわかりませんでした。
そうして僕が中学2年生になったとき、日本人として初のノーベル物理学賞を湯川秀樹先生※9が受賞されました。中間子の存在を数学で理論的に予測されたということがあって、僕は物理学の中でも理論物理学に関心をもちました。
一方で、数学にも興味がありました。
どうして数学に惹かれたかというと、三角形の内角の和が180度であることを、たった一本の補助線をひくだけで証明できる見事さと美しさに感動して、その世界に憧れを抱いたんです。それで大学は数学科に進みました。
三角形の内角の和は180°
僕が卒業するとき、「何もないところから他の力を借りることなく自らを生み出すことが可能かどうか」という論文を書き、それを指導教授が非常におもしろいと評価してくれました。今考えると、「何もないところからよその力を借りないで自らを生み出すことができる」いうのは、「何もないところから宇宙が誕生する」こととリンクしています。そうした諸々の経緯があり、数学科の課程を終えてから改めて物理学の道に進みました。
音楽から始まり、数学、物理という道のりも、一見混沌としているようにみえるかもしれないけれど、僕としてはひとつながりの世界だったのです。
聞き手:小山 文加(おやま あやか)
(当連載は2019年3月9日に取材した内容をもとに作成しております)
→「2.バッハをのせて旅する宇宙探査機ボイジャー」につづく(全4回連載予定)
- ※1 リベラルアーツとは、ギリシャ・ローマ時代の「自由7科」に起源をもち、中世のヨーロッパの大学では基本的な教養科目とされた。文法、修辞(論理学)、弁証の3学と、算術、幾何、天文、音楽の4科で構成される。
- ※2 カントは18世紀のドイツの哲学者(1724〜1804)。代表作の一つ、『実践理性批判』は次の言葉で結ばれる。「以前にもまして、新たな感嘆と畏敬の念をもって我々の心を満たし続ける二つのものがある。それは、わが上なる星空とわが内なる道徳律である。」
- ※3 旧制の小学校の名称。1886年から尋常小学校、1941年からは国民学校初等科に改称された。
- ※4 日本では1886〜1945年まで国定教科書制度が設けられていた。その間の学校教育は教育方針の変化によって5つの時期に分けられ、「月光の曲」は『尋常小学国語読本』(1918〜)、『小学国語読本』(1933〜)、『初等科国語』(1941〜)に掲載された。
- ※5 国内で初めてプラネタリウムを導入したのは、1937開館の大阪市立電気科学館。続いて国内2番目のプラネタリウムが東京の東日天文館に設置された。東京日日新聞(現在の毎日新聞)が1938年に有楽町駅前に創設。
- ※6 《軍艦マーチ》は行進曲「軍艦」(鳥山啓作詞/瀬戸口藤吉作曲)がもとになっており、トリオに「海行かば」(大伴氏言立作詞/東儀季芳作曲)を加えて演奏されるのが慣例だったという。
- ※7 《空の神兵》(梅本三郎作詞/高木東六作曲)は、帝国陸軍落下傘部隊に入隊した兵士達を描く、映画『空の神兵』の主題歌にもなった。落下傘部隊とは、落下傘(パラシュートのこと)で降り立ち、敵地を攻撃することなどを任務とした。
- ※8 異名同音とは、音名が異なるのに高さの同じ音のこと。例えばピアノの鍵盤で、ファとソの間にある黒鍵は、ファ#でありソ♭である。
- ※9 湯川秀樹(1907〜1981)は理論物理学者。原子核の内部で、電気的に中性な中性子同士を結び付ける「中間子」を理論的に導いた。
◇プロフィール
佐治 晴夫(さじ はるお)
1935年東京生まれ。理学博士(理論物理学)。東京大学、ウィーン大学での研究生活の後、玉川大学教授、県立宮城大学教授、鈴鹿短期大学学長などを歴任。無からの宇宙創生に関わる「ゆらぎ」の理論研究やNASAの宇宙探査機・ボイジャーに地球文明のタイムカプセルとしてバッハの音楽を搭載することの提案などでも知られる。音楽をこよなく愛し、金子みすヾの詩による歌曲作品などもある。現在北海道・美宙天文台台長。大阪音楽大学客員教授。日本文藝家協会所属。
著書:「14歳のための時間論」春秋社、「14歳のための宇宙授業」春秋社、「詩人のための宇宙授業―金子みすヾの詩をめぐる夜想的逍遥」JULA出版、「14歳からの数学-佐治博士と数のふしぎな1週間」春秋社、「宇宙のカケラ-物理学者、般若心経を語る」毎日新聞出版、他多数。
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