学び・教養
2022年01月13日掲載 / この記事は約8分で読めます
ヤマハ音楽教室の歴史をテキスト制作の変遷からたどる「よろこびをつなぐ」シリーズ。1950年代、ヤマハの銀座店の取り組みに端を発する音楽教室事業は、1959年に「ヤマハ音楽教室」と改称され全国に広まりました。その生みの親はヤマハの社長だった川上源一氏、当時まだ40代でした。1960年代以降、一大事業へと発展した音楽教室ですが、立ち上げの時期にはさまざまな試行錯誤があったようです。「1954年オルガンの教室を開講(ヤマハ音楽教室の前身)」――現在のヤマハの公式年表には、このように記されています。その舞台裏とは? ヤマハ音楽研究所のアーカイブプロジェクトでは、資料収集と併せて当時活躍した人びとを訪ねました。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
戦後の復興とヤマハの躍進
第二次世界大戦後、1950年の朝鮮戦争による特需を契機に日本経済は立ち直り始めたと言われています。現代のわたしたちの生活に欠かせない家電も、この頃から販売されるようになりました。しかし冷蔵庫や洗濯機が発売されても、当初は高価で買えない家庭がほとんど。1953年にNHKなどがテレビ放送を開始しても、テレビの価格も当時の平均月給で買える金額から遠くかけ離れており、人びとが「街頭テレビ」を囲んでいた時代です。
ヤマハの場合、終戦後1946年にオルガンやアコーディオン、1947年にはピアノの製造を再開していました。そして、1950年に川上源一(1912-2002)が第4代社長に就任。川上氏は事業の多角化を図り、会社の規模は拡大の一途をたどります。1951年の東京・銀座では、チェコの建築家レーモンド設計によるビルが竣工し、1953年にはそのビルの最上部の4・5階に「山葉ホール」が開館しました。
当時の山葉ホール
銀座は当時の生活の豊かさを象徴する街の一つであり東京の文化の中心でした。まだ都内でもコンサートのできる会場が限られていたため、ヤマハのビルには当時ほとんどのピアニストが出入りしていたといいます。ただし、本間千尋氏の研究で指摘されているとおり、ヤマハ音楽教室の本格化する1959年時点でも日本のピアノの世帯普及率はわずか1.6%※1。家電と同様に、ピアノも一般的には遠い憧れの対象だったのです。
銀座店だけではなかった「音楽教室」
さて、現在もヤマハには数多くのグループ会社がありますが、1950年代の組織構造も複雑でした。非常に大雑把にまとめると、楽器そのものの製造に係る部署と、それらの営業や販売に係る部署があったと想像してください。後者には国内にいくつか主要な拠点(主に〇〇支店と呼ばれます)があり、各支店の管轄のもと「直営店」や「特約店」が楽器販売等の現場を担っていました。
銀座のビルには「東京支店」が入っており、楽器等の小売業を行っていたのは同じビル内の「銀座店(直営店の一つ)」でした※2。銀座店のブレーンだったのが、1954年時点で東京支店の小売課長だった金原善徳(1922-2015)です。結論を先取りすると、今日のヤマハ音楽教室へと発展するスタート地点となったのは、金原氏が発案した銀座店での音楽教室の取り組みでした。ただし、ヤマハ独自のテキストが編纂され、現行の名称で音楽教室が全国展開に至るのは1959年。1954年から1959年までの5年間をわたしたちアーカイブプロジェクトのメンバーは黎明期と呼んでいます。
当時の日本楽器東京支店ビル
ここで、黎明期における他の楽器店の動向を覗いてみます。例えば、楽壇の動きを総括した『音楽年鑑※3』という資料があります。前年度の公演記録のほか関係者の名簿(なんと音楽家の自宅住所や連絡先まで!)がまとめられ毎年刊行されていました。名簿に設けられた「音楽学校・教授所・研究所」の項目に「ヤマハ音楽教室」という語が初登場するのは1957年版(1957年版といっても内容は1955年8月から1956年9月までの実績に基づいて編纂されています)。しかしその教室のコースは「アコーディオン科」「ギター科」「ハワイアン科」(p.202)であり、今日で言う「ヤマハ音楽教室」とは別物であることがわかります。ほかにも、「神戸ヤマハ音楽教室」(1958年版、p.207)のように「音楽教室」と名の付く取り組みは実は銀座店以外の楽器店でも試行されていた事実も確認できます。
ポイントは、1950年代のこれらの「音楽教室」は対象年齢や扱う楽器もさまざまで、「子ども向けのヤマハ音楽教室」ではなかったこと。全社的には初めから統一された教材や教育法をもつ音楽教室が目指されていたのではなく、銀座店も含めて複数の楽器店が音楽教室の可能性を模索していた訳です。これが、1950年代の“現場”の実情と言えるでしょう。
「子どもが楽器を習う場所がないなら、つくればいい」
黎明期の中心人物である金原氏は1947年にヤマハに入社。東京支店を経て本社業務部長などを歴任し、後に取締役も務めました。2015年に93歳のお誕生日を迎える前に逝去されましたが、前年にお会いした際にも昔のことだけではなく現在のヤマハの経営についても明晰な分析と持論を展開していた姿が思い出されます。以下、ご本人から提供していただいた資料に基づき、他の調査の成果とも照らし合わせながら、日本各地で音楽教室が試行される中、なぜ銀座店の取り組みがヤマハ音楽教室の端緒となったのかを紐解いていきましょう。
提供資料によると、金原氏は自身のことを「ジェネラリストでプロモーターとでも言う立場」と述べています。ヤマハ音楽教室の発足に関しては、次のように続けます。
「我々楽器産業に携わる者は、企業ニーズとして音楽人口の拡大を計ることは、需要創造のために極めて大切であります。そして健全な愛好者作りをプロモートする事は、ビジネスのアフターサービスの面からも企業の社会的責任として価値のある事です。」(原文ママ)※4
例えば家電製品ならば購入者は一度使い方を覚えさえすれば自力で使いこなせるのに対して、楽器はそうはいきません。また、家事や勉強と比べて家庭内で教え合える可能性は圧倒的に低いです。楽器の活用方法を伝えるのはアフターサービスとして必要だという発想に金原氏が至ったきっかけは、「ピアノを買っても、子どもが習う先生がいない」という保護者からの発言だったといいます。さらに、金原氏はマネージャーであって音楽の専門家ではなかったため、音楽が好きで楽器への憧れがあるけれどもどうやって演奏したらいいかわからないという人びとの心情に深く共感していました。だからこそ、子ども向けの音楽教室では、子どもが楽しそうに学んでいるかという観点を重要視したのです。
子どもを惹き付けるグループレッスン
1954年、銀座店では子どもを対象とする、修業年限1年間の音楽教室が開設されました。講師には井口基成(1908-1983)、安川加壽子(1922-1996)、田中すみ※5の3氏が招かれました。このうち、井口・安川クラスは個人レッスンで、井口氏は『バイエル』、安川氏は『メトード・ローズ』を教材に用いていました。金原氏らの証言や調査結果を総合すると、どうやら通常は門下生がレッスンを手伝い、およそ3カ月に1回の頻度で井口氏・安川氏が直接指導に当たったというのが実態に近いようです。実際、『音楽年鑑』(1958年版、p.205ほか)にも銀座店の「子供のピアノ教室」の講師名に2人の名前はありません。日本を代表するピアニスト両名を中心に据えたのはビジネス上の戦略だったと言えそうです。
桐朋学園の「子供のための音楽教室」と同様に、井口氏・安川氏の個人レッスンが専門家養成を志向していたのに対し、田中すみ氏の「いろおんぷ教室」はグループレッスンでした。
田中氏の考案した「いろおんぷ」とは、音階に虹の七色を割り当てて絶対音感を養う指導方法のことです。教材の楽譜の音は白抜きになっています。子どもたちはそれらの音符を「ドはレッド(赤)、レはレモン(黄色)、ミはみどり……」のように音高に合わせて色で塗りつぶし、色と音を結び付けていきます。発明家の父をもつ田中氏は自身も多くの教材・教具の開発でさまざまな発明賞を受賞され、例えば『Tanaka 20ばん : いろあわせでおんがくを』(音楽之友社、1962年)には色がみ、色ゆびわ、色シールも付録でついていました。
※クリックすると拡大表示します
遊びの要素を含んだ「いろおんぷ」に、子どもたちは大喜び。そうしたレッスン風景に金原氏は注目しました。あくまでマネージャーとしての慧眼で「いろおんぷ」教室に可能性を見出した金原氏は、「いろおんぷ」によるグループレッスンの成果や課題の音楽教育的な検証は音楽の専門家たちに委ねました。そうして、ヤマハ独自の教育法を検討する流れが生み出されていきます。次回は、新しい音楽教室の在り方を検証するために集められた3名の奮闘記をお送りします。
音楽教室の創始者は誰かという問い
このように1954年の出来事を概観すると、ヤマハ音楽教室は金原氏が創設したのでは?という感想を抱かれる方もいるかもしれません。確かに歴史的事実には複数の解釈の可能性が拓かれていますが、冒頭で述べたとおり、ヤマハ音楽教室の生みの親は当時社長だった川上源一氏だと考えられています(いずれにしても金原氏の功績が偉大であったことも言うまでもありません)。最後に、その理由を説明しましょう。
まず、川上氏はピアノ教則本『バイエル』に一貫して批判的な立場を取ってきました。これは複数の著作物で確認できます。一部のクラスで『バイエル』を用いていたという教材選定の実態からも、銀座店の取り組みは当初はあくまで銀座店単独のテストケースだったと捉えられます。それでも結果的に銀座店の教室から全国規模の事業に発展したのは、金原氏の目指した音楽教室の方向性が社長の川上氏の問題意識と合致したからです。
銀座店で音楽教室が始まるより前、1953年に川上氏は視察で欧米を訪れています。そこで楽器演奏をめぐる状況について課題に気付きます。
「欧米の家庭を訪れると、家庭の生活のなかで楽器が本当に生きている姿を親しく眼のあたりにする。(中略)ところが、私どものつくる楽器はどんどん売れるのに、町を歩いても音ひとつ聞こえてこない。ピアノは買っても、かなでるすべを知らないのだ。」※6
この問題意識こそ、後に「音楽普及の思想」としてヤマハ音楽教室の理念を形成します。「かなでるすべを知らない」人びとにどう働きかけるか、そのための実践の芽を銀座店の試行に見出し、音楽教室事業として育てるよう号令をかけたのは、やはり社長の川上氏でした。
金原氏が朝日新聞による取材を受けて完成した2007年の記事には、次の一節があります。
「川上は金原のアイディアにお墨付きを与え、自ら先頭に立つ」※7
わたしがインタビューに訪れたとき、その記事を一緒に眺めながら「絶妙だね」とニヤリと笑った金原氏の表情は、今でも鮮明に覚えています。
- ※1 本間千尋(2015)『日本におけるクラシック音楽文化の社会学的研究――ピアノ文化を中心として――』2015年度慶應義塾大学大学院社会学研究科博士論文、p. 123。
- ※2 この違いは外部からはわかりづらく、近年の研究では「東京支店」と「銀座店」を混同した表記(例えば「銀座支店」など)もみられますが、本文で述べたように組織上は明確な違いがあります。
- ※3 本稿で引用している1957~1958年版の『音楽年鑑』は音楽之友社と音楽新聞社による共編ですが、現在の『音楽年鑑』は音楽之友社編で毎年発行され続けています。
- ※4 ご本人の経歴から当該資料は1973~1981年頃に書かれたと推定されます。
- ※5 田中すみ(1909?-)は、黒澤貞次郎(タイプライターを日本に紹介した実業家・技術者)の次女として生まれ、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)を卒業したピアニスト、教育者、発明家。夫の田中規矩士(1897-1955)もピアニスト。資料によって「たなかすみこ」「田中すみ子」「田中澄子」などの表記があります。
- ※6 檜山睦郎(1964)「子どもの世界に楽しい音楽を」『企業の現代史41 よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部、p.98。
- ※7 「ニッポン人・脈・記 ピアノが見た夢⑧ 500万の子にド・レ・ミ」朝日新聞2007年11月2日夕刊。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。