ずっと、音楽と一緒に。 ON-KEN SCOPE

ON-KEN SCOPE とは?

ずっと、音楽と一緒に。
ON-KEN SCOPE
  1. ホーム
  2. 学び・教養
  3. 音楽教室の芽は銀座で育つ
学び・教養
ヤマハ音楽教室の歴史をテキスト制作の変遷からたどる「よろこびをつなぐ」シリーズ。1950年代、ヤマハの銀座店の取り組みに端を発する音楽教室事業は、1959年に「ヤマハ音楽教室」と改称され全国に広まりました。その生みの親はヤマハの社長だった川上源一氏、当時まだ40代でした。1960年代以降、一大事業へと発展した音楽教室ですが、立ち上げの時期にはさまざまな試行錯誤があったようです。「1954年オルガンの教室を開講(ヤマハ音楽教室の前身)」――現在のヤマハの公式年表には、このように記されています。その舞台裏とは? ヤマハ音楽研究所のアーカイブプロジェクトでは、資料収集と併せて当時活躍した人びとを訪ねました。  

* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。

 

戦後の復興とヤマハの躍進

第二次世界大戦後、1950年の朝鮮戦争による特需を契機に日本経済は立ち直り始めたと言われています。現代のわたしたちの生活に欠かせない家電も、この頃から販売されるようになりました。しかし冷蔵庫や洗濯機が発売されても、当初は高価で買えない家庭がほとんど。1953年にNHKなどがテレビ放送を開始しても、テレビの価格も当時の平均月給で買える金額から遠くかけ離れており、人びとが「街頭テレビ」を囲んでいた時代です。

 

ヤマハの場合、終戦後1946年にオルガンやアコーディオン、1947年にはピアノの製造を再開していました。そして、1950年に川上源一(1912-2002)が第4代社長に就任。川上氏は事業の多角化を図り、会社の規模は拡大の一途をたどります。1951年の東京・銀座では、チェコの建築家レーモンド設計によるビルが竣工し、1953年にはそのビルの最上部の4・5階に「山葉ホール」が開館しました。

当時の山葉ホール

銀座は当時の生活の豊かさを象徴する街の一つであり東京の文化の中心でした。まだ都内でもコンサートのできる会場が限られていたため、ヤマハのビルには当時ほとんどのピアニストが出入りしていたといいます。ただし、本間千尋氏の研究で指摘されているとおり、ヤマハ音楽教室の本格化する1959年時点でも日本のピアノの世帯普及率はわずか1.6%※1。家電と同様に、ピアノも一般的には遠い憧れの対象だったのです。

もっと読む

銀座店だけではなかった「音楽教室」

「子どもが楽器を習う場所がないなら、つくればいい」

子どもを惹き付けるグループレッスン

音楽教室の創始者は誰かという問い

◇著者プロフィール

今後より一層内容の充実を図るため皆さまからのご意見・ご要望をお聞かせいただきたく、アンケートへのご協力をお願い申し上げます。(全12項目)
この記事をどのようにして見つけましたか?※必須

入力枠

この記事についての印象をお聞かせください。※必須
この記事の文字量はいかがでしたか?※必須
この記事は役に立ちましたか?※必須
この記事がご自身にとって何に役立つと思われますか?(複数回答可)※必須

入力枠

このサイトには何回訪問されましたか?
このサイトのご利用頻度をお聞かせください。
あなたの職業をお聞かせください。※必須

入力枠

あなたの年代をお聞かせください。
あなたの性別をお聞かせください。
興味をお持ちのテーマをお聞かせください。(複数回答可)

入力枠

この記事についてのご感想やご意見などご自由にお書きください。
ページトップへ