学び・教養
2022年01月27日掲載 / この記事は約12分で読めます
ヤマハ音楽教室の歴史をテキスト制作の変遷からたどる「よろこびをつなぐ」シリーズ第3回。1954年にヤマハの銀座店で開始した音楽教室では、当初は既存のピアノ教則本や指導法が用いられました。当時のヤマハにとって、子どもを対象とする音楽教室事業は新たな試み。運営を統括していた金原善徳氏はこの取り組みを専門家らに検証・研究させます。その際に活躍したのが、「全日本器楽教育研究会」でした。
注目すべきは、ヤマハ音楽教室初のテキストの編著者は全員もともと全日本器楽教育研究会のメンバーだったことです。同会の活動から、学校教育における器楽の授業の充実に楽器産業が果たした一定の役割を知ることもできます。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
広報活動を通じた音楽普及
1954年、ヤマハ音楽教室の前身となる子ども向けの音楽教室が銀座店で始まりましたが、1950~1960年代の東京支店は音楽の普及を目的にさまざまな場所と手法を活用していました。特に広報活動には力を入れていたとみられ、今回のアーカイブプロジェクトで収集した資料の中でも『ヤマハニュース』※1と『muse(ミューズ)』という雑誌は当時の楽壇や教育現場の様子がうかがえる、非常に興味深い内容になっています。
『ヤマハニュース』22号(1958)の表紙
『ヤマハニュース』は月刊誌で、1956年創刊と推定されます。東京支店で創刊され、後にヤマハ(本社)発行となりました。B5サイズで20ページにも満たない薄い冊子ですが写真が充実しています。『muse』は1961年に創刊された「ピアノの先生の指導上のお役に立つ雑誌、そして、先生がたの夢をみたすような楽しい雑誌」(vol.1 〈創刊号〉1961、p.91)で、本シリーズのキーパーソンとなる方々の寄稿が多く含まれていました。
ピアノの先生向け雑誌『muse』
さて、『ヤマハニュース』111号には「《特集・ヤマハ音楽教室・上》その生い立ちから現在まで」をテーマにした記事が掲載されています。1965年時点で音楽教室の創設とその後の展開はどのように語られているでしょうか。
「最初は井口基成、安川加寿子、田中澄子の三氏にお願いし、銀座の地階に練習室を設けて、それぞれの先生方のメソードによって、個人レッスン中心の授業を行ってもらいました。また同時に、教育に関心のある数人の音楽の専門家を迎えました。そして直ちに、この人たちは三先生方のレッスンを研究しながら、どうすれば楽しく、しかもやさしく音楽を教えられるかという問題に取り組みはじめました。」※2
今回の主役は、ここに登場する「教育に関心のある数人の音楽の専門家」です。銀座店の音楽教室を統括していた金原善徳氏(→本連載第2回)の要請でこの問題に取り組んだ顔ぶれの中から、ヤマハ独自のテキスト制作を担う人材がそろいました。
器楽教育の隆盛と全日本器楽教育研究会
銀座店の音楽教室において提示された「どうすれば楽しく、しかもやさしく音楽を教えられるかという問題」。この“宿題”に取り組んだのが、「全日本器楽教育研究会」のメンバーです。そして最終的に同会の松本洋二(1955年入社)、高橋正夫(1955年入社)、伊藤英造(1956年入社)の3氏がヤマハ音楽教室初のテキストを編纂しました。
全日本器楽教育研究会(以下、器楽教育研究会)とは、戦後の学校教育の潮流に応答するかたちでヤマハ社内に組織された、学校教育現場における器楽指導をサポートするグループです。このグループの活動の解像度を上げていただくために、学校における音楽教育の状況をみてみましょう。
「教育の民主化」は、終戦後の日本に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が示した五大改革指令の一つでした。1947年に教育基本法と学校教育法が制定・施行されるとともに、「学校教育法施行規則」、「学習指導要領一般編(試案)」と「学習指導要領各教科編(試案)」が順次公示されます。学校のカリキュラムは今日でも原則的に「学習指導要領」に基づき編成されています。
1950年代から1960年代までに「学習指導要領」は1951年、1958年、1968年の3回改訂されています。一連の教育改革に伴い、学校音楽教育が唱歌中心から器楽や創作などの領域も重視するように変化したことは、楽器の製造・販売を行う会社や出版・レコード業界にビジネスチャンスをもたらしました。第三次「学習指導要領(音楽科)」(1958)では小学校で取り扱う楽器にハーモニカやオルガン、アコーディオンといったリード楽器※3が加えられました。1959年に発行された当時のヤマハの社内報『日楽社報』にも、学習指導要領改訂の趣旨に則って図のような新型のデスクオルガンを発売する旨が掲載されています(119号、p.3)。なお、1960年代には学校によっては数十台ものオルガンを設置して集団での授業が行われるほど広まったのだから驚きです。
1959年発売の新型デスクオルガン
学校外の音楽教育においてグループレッスンの形態は、ヤマハ音楽教室の特徴の一つでした。当時の音楽の習い事では専門教育志向が強く、個人レッスンが主流だったからです。しかし学校の内外という分け方を取り払ってみると、集団に向けて音楽を教える場として学校はヤマハ音楽教室よりはるかに先行していました。ただ、従来は歌が中心だったところ器楽の集団授業となると、学校現場でも指導者の不足は深刻でした。そこで、ヤマハは学校へ楽器を販売するだけではなく、奏法や指導法の面から器楽の授業のサポートを行う人材を派遣していました。器楽教育研究会はそのために集められたメンバーで、各地の楽器店に配置されました。
高知での邂逅
器楽教育研究会がいつ結成され、いつ解散したかは定かではありません。ただ、同会メンバーの入社時期(社内で毎月発行されていた『日楽社報』から人事異動の確認が可能です)や、1955年発売の『小学校の合奏』(ビクター)等のレコード製作にかかわっていた記録から、1955年以前から器楽教育研究会としての活動が始まっていたと推定されます(国立国会図書館デジタルコレクションサイトでは、器楽教育研究会による演奏を聴くこともできます)。
1958年には「実験的な態度と真摯な努力とによって築きあげた研究の成果」(表2)と評された『きがくのほん(上下巻)』(松本民之助、池田富造監修、全日本器楽教育研究会編著)を小学校器楽教本として出版。その後、『デスクオルガンによる学習指導の手引』(1963)や『オルガンと音楽教育』(1964)以降に器楽教育研究会関連の出版物は確認できないことから、活動期間は10年ほどではないかとわたしは考えています。遅くても1966年の財団法人ヤマハ音楽振興会の発足に伴い組織再編されたと思われます。
器楽教育研究会のメンバーは、本連載タイトルの元になっている本『よろこびをつくる』(1964)に18名の名前が掲載されています。関係者の証言によれば、メンバーはハーモニカ演奏の名手が多く、学校現場でのハーモニカ人気に対応できる体制だったのでしょう。その中で、後にテキスト編著者となる松本・高橋・伊藤の3氏は鍵盤楽器の演奏に長け幼児教育への見識が深く、それぞれ大阪、東京、名古屋で「器楽講師」という役職でヤマハに入社しました。
松本氏による回顧録をもとに調査した結果、3都市でばらばらに活動していた3氏は1957年に第4回全国音楽教育研究会高知大会(11月21〜23日)で一堂に会しました。全国音楽教育研究会は文部省と各地の教育委員会の共催で1953~1968年度まで開催された、班ごとに主題を設定して研究発表を行う催しです。
大会後に食事をしながら意見を交わしたところ、銀座店の音楽教室に関する3氏の意見は個人レッスンの形態にも「いろおんぷ」を用いた指導法にも懐疑的である、という共通点がありました。その後すみやかに独自のテキスト制作が始まり、1959年に発刊されることになります。なお、3氏が入社し、出会い、テキスト編纂作業をしていた間、銀座店での音楽教室も続いていました。しかし、新しいテキストをつくる必要性を社長の川上源一氏も金原善徳氏も理解していたと、松本氏は回想しています。
鍵盤楽器+グループレッスン+幼児教育
今回のアーカイブプロジェクトでは、松本氏と高橋氏には直接インタビューがかないました。松本氏は退職後もヤマハOB会シニアアンサンブルで指揮を務めるなど、2020年に95歳でお亡くなりになる直前まで音楽に彩られた生涯を送られました。広島で育ち、教会に通って讃美歌を弾くうちにメロディにハーモニーを付ける感覚が自然と身に付いたと語っています。戦後、ヤマハ音楽教室より先に関西圏の小学校でオルガンによる集団授業を先駆的に導入する運動に参画したり、中学校にオーケストラ部をつくって指導したり幅広く活動していたため、1955年のヤマハ入社前から各地の楽器店とつながりがあったようです。
高橋氏は千葉大学在籍中に器楽教育研究会の活動を手伝うようになり、その流れでヤマハに入社。1977年以降は上野学園大学の教授などを歴任し、『幼児教育法音楽・音楽リズム(理論編)』(1979)など数々の著作・教本を記すとともに指揮者としても活動しています。高橋氏が自ら恩師と語ったのが千葉大学で教鞭を執っていた石黒一郎(のちに同大名誉教授)。松本氏が音楽一家であったのに対して※4、高橋氏の家庭はご本人の言によれば「父親も母親も全然音楽の“お”の字もないのに」「オルガンが入ってきたの、なぜか家に」。音楽が好きで中学生のときにハーモニカ日本一になった高橋氏は、鍵盤楽器は石黒氏に教えられ、音楽教育の考え方も石黒氏から大きな影響を受けたといいます。石黒氏はヤマハ音楽教室でも外部のアドバイザーのような立ち位置でした。
伊藤氏は、1929年に長野に生まれ2016年に同地で逝去されました。品川孝子との共著『音楽才能の伸ばし方』(1971)のほか代表作に『音楽の薦め』(1996)、『新・音楽の薦め』(2005)があります。信州大学卒業後に中学校で指導した経験をもち、子どもの発達段階に応じた指導の重要性を一貫して説いています。
松本・高橋両氏のお話によれば、3氏にはそれぞれの得意分野とそれに基づく役割分担がありました。「幼児を対象とした、鍵盤楽器のグループレッスン」のためのテキストと指導法は、彼らのあふれるアイディアと、それをまとめ、論理的に裏付けるという作業の繰り返しによって編み出されていきます。ただ、ご本人たちは得意分野があったとおっしゃっていましたが、今日的な感覚では音楽の総合力がきわめて高かったのだとわたしは捉えています。彼らがさまざまな楽器、多様なジャンルの音楽に通じ、アンサンブルを愛し、教育に対する哲学があり、全員学校現場で集団に教える経験をもっていたことは、ヤマハ音楽教室のレッスンの特色に結実していると思います。
左から松本氏、伊藤氏、高橋氏
1961年発行の『muse』5号には、若き日の編著者たちの座談会の様子が掲載されていました(p.10)。当時まだ30歳前後だった3氏が、自由な発想で新しい音楽教室の在り方を模索した、それを可能にした社風と時代の機運もあったのかもしれません。松本氏の回顧録に残された、高知での会話の中に次の一節があります。「子どもが音楽するのに、もうちょっと楽しくやれるんじゃないかとかね。それで3人が集まって何とかするかい、という話になったんです」。
「子どもが音楽するのに、もうちょっと楽しくやれるんじゃないか」、この問いに彼らの目指した教育の本質がみえるような気がします。
- ※1 『ヤマハニュース』と同名の情報誌がヤマハ発動機株式会社から1959年に創刊され、現在ではvol.1からvol.492までがデジタル化資料として公開されています。本文で言及している『ヤマハニュース』は消失・散逸が激しく、ヤマハ音楽研究所内のほか国立音楽大学附属図書館や東京文化会館音楽資料室の所蔵資料と合わせても特に50号以前は見つかっていないものが多数あります(149号で廃刊)。
- ※2 「《特集・ヤマハ音楽教室・上》その生い立ちから現在まで」『ヤマハニュース』111号、1965年、p.18。田中すみ氏の名前表記は原文ママ。
- ※3 リード楽器とはリードによって音を出す楽器の総称。クラリネットやサクソフォン等の木管楽器はリードで管内の音を振動させ音を発生させますが、ハーモニカやアコーディオンでは空気で金属製のリードそのものが振動することにより音が出ます。通常、学校教育現場で用いられるのは後者のリード楽器です。
- ※4 ご本人の回想によれば松本氏が育った地域でピアノがあった家庭は3軒のみ、そのうちの1軒が松本家でした。また松本氏の兄弟には国際的に活躍したテナー・サックスの名手、松本英彦(1926-2000)がいます。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。