ずっと、音楽と一緒に。 ON-KEN SCOPE

ON-KEN SCOPE とは?

ずっと、音楽と一緒に。
ON-KEN SCOPE
  1. ホーム
  2. 学び・教養
  3. 『幼児の本』から『じゅにあー』へ
学び・教養
ヤマハ音楽教室ではテキストが作成、改訂されるたびに、講師向け指導資料も編纂されます。編著者の松本洋二、高橋正夫、伊藤英造の3氏は、初めて鍵盤楽器に触れる子どもたちに適したレッスンの在り方を追求します。幼児が日常生活を送る中で言葉を自然に習得するように、音楽の総合的な基礎がいつの間にか身に付くようにするには、どのように教えればよいのか。キーワードは「模倣」でした。『幼児のオルガンの本』から2代目『幼児の本』になると、鍵盤楽器への導入という点でも指導法の充実が図られます。そのために編著者の3氏は世界中から楽譜や資料を取り寄せ、諸外国の音楽教育について徹底的に研究しました。

* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。

 

全国展開を決定付けた“1961年”

本連載の折り返し地点である今回(第6回)は、ここまでのヤマハ音楽教室創設の流れの振り返りをしてからお話を進めたいと思います。

 

1954年に銀座店で子ども向けの音楽教室が開始、金原善徳氏がその取り組みを牽引しました。1950年代後半には各地で音楽教室が試行されていたものの、銀座店のケースの検証を元に新たな音楽教育の在り方を探求することになり、1956年に「ヤマハオルガン教室」と命名。社長の川上源一氏が旗振り役となり、音楽教室を全国展開するために、松本洋二・高橋正夫・伊藤英造の3氏がテキスト『幼児のオルガンの本』を完成させたのが1959年。併行して金原氏らが幼稚園を会場とする運営システムを構築。1959年は「各地まちまちに行われていたオルガン教室を整理、統合し、長期的な構想のもとにヤマハ音楽教室を発足させた※1」年だと言われています。

 

翌1960年に『幼児の本』が刊行。1959年時点で約2万人だった生徒数は、1960年に約6万人、1961年には約12万人に上りました。たった2年間で約6倍という増加率は驚異的と言えます。そして1961年には、ヤマハ音楽教室の全国展開が軌道に乗ったことを印象付けるいくつもの出来事が起こります。

『日楽社報』(第139号)掲載の発表会の様子

まず、1961年2月に発行された当時のヤマハの社内報『日楽社報』においてヤマハ音楽教室が初めて詳しく紹介されました(第139号、pp.19-24)。ヤマハは楽器以外にも多角的な事業を展開していたので、それまで社報に音楽教育関連のトピックが載る頻度が実はそこまで高くありませんでした。

次に、同年4月の『日楽社報』によれば、ヤマハ内に「PR本部ならびにヤマハ音楽教室本部」が新設され、PR本部兼ヤマハ音楽教室本部長に金原氏が着任、松本・高橋・伊藤の3氏を含む9名がヤマハ音楽教室本部に異動しています(第140号、pp.5-6)。さらに9月には全国講師大会が開催。全社を挙げてヤマハ音楽教室を推進しようとしていたと判断するには十分な根拠になるかと思います。

 

もっと読む

幼児科の対象範囲

伝説の全国講師研修会

カデンツの重要性

『じゅにあー』へ発展

鍵盤楽器を軸とする統合学習

◇著者プロフィール

今後より一層内容の充実を図るため皆さまからのご意見・ご要望をお聞かせいただきたく、アンケートへのご協力をお願い申し上げます。(全12項目)
この記事をどのようにして見つけましたか?※必須

入力枠

この記事についての印象をお聞かせください。※必須
この記事の文字量はいかがでしたか?※必須
この記事は役に立ちましたか?※必須
この記事がご自身にとって何に役立つと思われますか?(複数回答可)※必須

入力枠

このサイトには何回訪問されましたか?
このサイトのご利用頻度をお聞かせください。
あなたの職業をお聞かせください。※必須

入力枠

あなたの年代をお聞かせください。
あなたの性別をお聞かせください。
興味をお持ちのテーマをお聞かせください。(複数回答可)

入力枠

この記事についてのご感想やご意見などご自由にお書きください。
ページトップへ