学び・教養
2022年03月10日掲載 / この記事は約12分で読めます
ヤマハ音楽教室ではテキストが作成、改訂されるたびに、講師向け指導資料も編纂されます。編著者の松本洋二、高橋正夫、伊藤英造の3氏は、初めて鍵盤楽器に触れる子どもたちに適したレッスンの在り方を追求します。幼児が日常生活を送る中で言葉を自然に習得するように、音楽の総合的な基礎がいつの間にか身に付くようにするには、どのように教えればよいのか。キーワードは「模倣」でした。『幼児のオルガンの本』から2代目『幼児の本』になると、鍵盤楽器への導入という点でも指導法の充実が図られます。そのために編著者の3氏は世界中から楽譜や資料を取り寄せ、諸外国の音楽教育について徹底的に研究しました。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
全国展開を決定付けた“1961年”
本連載の折り返し地点である今回(第6回)は、ここまでのヤマハ音楽教室創設の流れの振り返りをしてからお話を進めたいと思います。
1954年に銀座店で子ども向けの音楽教室が開始、金原善徳氏がその取り組みを牽引しました。1950年代後半には各地で音楽教室が試行されていたものの、銀座店のケースの検証を元に新たな音楽教育の在り方を探求することになり、1956年に「ヤマハオルガン教室」と命名。社長の川上源一氏が旗振り役となり、音楽教室を全国展開するために、松本洋二・高橋正夫・伊藤英造の3氏がテキスト『幼児のオルガンの本』を完成させたのが1959年。併行して金原氏らが幼稚園を会場とする運営システムを構築。1959年は「各地まちまちに行われていたオルガン教室を整理、統合し、長期的な構想のもとにヤマハ音楽教室を発足させた※1」年だと言われています。
翌1960年に『幼児の本』が刊行。1959年時点で約2万人だった生徒数は、1960年に約6万人、1961年には約12万人に上りました。たった2年間で約6倍という増加率は驚異的と言えます。そして1961年には、ヤマハ音楽教室の全国展開が軌道に乗ったことを印象付けるいくつもの出来事が起こります。
『日楽社報』(第139号)掲載の発表会の様子
まず、1961年2月に発行された当時のヤマハの社内報『日楽社報』においてヤマハ音楽教室が初めて詳しく紹介されました(第139号、pp.19-24)。ヤマハは楽器以外にも多角的な事業を展開していたので、それまで社報に音楽教育関連のトピックが載る頻度が実はそこまで高くありませんでした。
次に、同年4月の『日楽社報』によれば、ヤマハ内に「PR本部ならびにヤマハ音楽教室本部」が新設され、PR本部兼ヤマハ音楽教室本部長に金原氏が着任、松本・高橋・伊藤の3氏を含む9名がヤマハ音楽教室本部に異動しています(第140号、pp.5-6)。さらに9月には全国講師大会が開催。全社を挙げてヤマハ音楽教室を推進しようとしていたと判断するには十分な根拠になるかと思います。
幼児科の対象範囲
さて、1954年に始まった一連の音楽教室はテキストの名前が示すとおり幼児を対象としており、「幼児科」といいます。それ以外の年齢層を対象にしたコースもなかった訳ではありませんが※2、1960年代のヤマハ音楽教室=幼児科と捉えてほぼ問題ありません。
先述のとおり『日楽社報』でヤマハ音楽教室の紹介が初めて詳述されたのは1961年です。記事のタイトルは「全国で大変盛んなヤマハ音楽教室」で、興味深い記述がみられます。
「現在全国では、可愛いお子様のお友達が六万人も入っています。今年はもっともっと増えて、倍くらいの人数になる見込みです。
今は、四才から小学二年生までの幼児が大部分で、ほとんどが幼稚園を会場にしてたのしくべんきょうしています。これを幼児科と呼んでいますが今年はこのほかに成人向けのいろいろな教師もつくって行きます。」(原文ママ、下線は筆者による)※3
レッスン風景(1961年)
レッスン会場となっている幼稚園は一般的に4、5歳児が通う場所であり、現在の幼児科では対象を「4、5歳児」と定めています。しかし、1960年代の対象年齢は今よりも設定がゆるやかで、小学生も受け入れていた実態がうかがえます。ただし、最長で4~7歳まで学べるという意味ではなく、修業年限は2年間、半年で1冊、2年で全4巻のテキストを終わらせる目安でした。
伝説の全国講師研修会
1961年に起きたもう1つの特筆すべき出来事が、ヤマハ音楽教室講師全国大会です。本社のある静岡県浜松市に全国から総計およそ1500人※4の講師が集まりました。その様子は同年の『muse』(vol.1 No.6、pp.48-54)や『日楽社報』(第144号、pp.4-5)などで大きく報じられています。
風船揚げに集った講師(『日楽社報』第144号)
大会運営本部の組織図には、大会会長の川上源一氏をはじめ本連載ではおなじみ金原善徳氏や、聴き取り調査にご協力いただいた石川源四郎氏らが名を連ねています※5。その後、講師の爆発的増加により研修は地区別になったので、結果的に全国規模の大会はヤマハ音楽教室の歴史上きわめて稀なイベントとなりました。
ヤマハ音楽教室の発展において、講師研修会は非常に重要な意味をもっています。初代~2代目のテキスト編著者である松本・高橋・伊藤の3氏はもともと自らも現場で教える立場にありましたが、テキストを制作するようになって以降も現場の講師が実際に指導してみて改善点があれば、どんどん改訂して指導法を更新するスタンスをとっていたからです。
実際『幼児の本』の指導資料とは別に、1964年度にまとめられた「指導の手引」という資料をみると、指導法がブラッシュアップされ、今日まで使用される用語がおおよそ出揃います。
『幼児のオルガンの本』以来、ヤマハ音楽教室のレッスンは「模倣」を通して子どもがいろいろな力を身に付けられるよう設計されてきました。これは、幼児はしゃべることができる、それならば言葉を覚えるように音楽も習得していけるのではないかと考えた、編著者3氏の発想からきています。
先生のまねをして歌う「模唱」(→本連載第5回)に加え、講師が音名を歌いながら弾いたものをまねして弾かせることを「模奏」といいます。音を聞かせて音名で歌わせることは「聴唱」、聴いたものをそのとおりに弾くのは「聴奏」といい、難易度的には聴奏が最も難しくなります。ただ、先生が幼児に直接「これから模唱をしますよ」「聴奏しましょう」などと言う訳はなく、レッスンの中で先生が歌ったり弾いたりしているのをまねる活動が繰り返されるうちに子どもは自然とやるべきことを理解していきます。
カデンツの重要性
ここで、『幼児の本』時代におけるもう1人のキーパーソンをご紹介します。テキスト自体は松本、高橋、伊藤の3氏による編著ですが、指導書の編纂や講師全国大会などで3氏とともに指導的立場にあったのが、村川千秋氏です。
村川氏は1963年に渡米し、帰国後は指揮者としてのキャリアを築かれました。東北のプロ・オーケストラ、山形交響楽団の創立名誉指揮者としてご存知の方も多いと思います。アーカイブプロジェクトでは村川氏にもご協力いただきました。
村川千秋氏近影(ご本人提供)
渡米前の1960年頃、村川氏はヤマハで最初期のエレクトーン(電子オルガン)の教材開発や、幼児科以外にも上級者向けの「専門コース」の試行などに携わっていました。村川氏も松本氏らと同様に、「絶対ハーモニーを中心に、とにかくやっていこうということで」幼児科を推進したと語っています。それと関連して「やっぱりカデンツなんですよ、わたしがやっているのは」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
文章には文法があるように、ハーモニーにも句読点をつけるための型のようなものがあります。保育園や学校などでお辞儀をするとき、ジャーン・ジャーン・ジャーンと先生が3つの和音を響かせていませんでしたか? もし2つ目の和音で止まってしまったら、きっとどこか落ち着かない感じがするでしょう。
2つ目から3つ目の和音への進行を「終止形」といい、フレーズに終わった感じをもたらします。幼児科でハーモニーを重視するということは、いろいろな種類の和音をただ教え込むのではなく、文法とセットで豊かなハーモニー感覚を養っていく、そのためにまずは基本となるカデンツを重視する。村川氏の言葉には幼児科におけるハーモニー学習の意図が要約されています。
お辞儀をするときの譜例
『じゅにあー』へ発展
1965年、幼児科テキストは『幼児の本』から3代目『じゅにあー』(全6巻)へと改訂されました。編著者から松本氏が抜け、伊藤英造、高橋正夫、三好啓士の3氏による体制へと変化。1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会が設立されて以降に印刷された版では、編著者は個人名ではなく「ヤマハ音楽振興会指導部」を経て「ヤマハ音楽振興会研究室」と記載されるようになります。
鍵盤楽器を通じた音楽の総合的な基礎の理解、ハーモニー感覚の習得、適期教育など、『じゅにあー』は初代~2代目のテキストで提示された理念を継承しています。編著者が3人中2人は同じなので、自然な流れだと思います。
『じゅにあー』(全6巻)の表紙
それでは、なぜ改訂する必要があったのでしょうか。背景の一つは、教室運営上の事情です。1960年代を通じて生徒数は20万人を超えました。幼児科は導入を目的とした、いわば音楽教室の入口の部分を担っていましたが、先述のとおりこの時点で幼児科修了後のコースは整備されていませんでした。そこで、幼児科を2年から3年に延長する方策が取られ、修了年限3年を想定したテキストが必要になったのです。
鍵盤楽器を軸とする統合学習
3代目『じゅにあー』への改訂のポイントは、『幼児の本』までは指導書のみに記載されていた、教材に関連付けて学ぶべき音楽要素(リズム、メロディ、ハーモニーなど)がテキスト上に明記されたことです。編著者の1人である高橋正夫氏は、次のように語っています。
「ヤマハはね、1つの曲があったらその中から色んなリズムも勉強しましょう、歌も歌いましょう…(中略)…曲があったら、その中から先生方が自分で研究して、子どもたちに教えましょうと、そういうことで始まったんです。」
音楽の総合的な基礎の指導では、テキストとソルフェージュを完全に切り離すのではなく、講師がテキストから学ぶ要素を取り出し、模唱や模奏などを繰り返して聴音力などを育成する。『幼児の本』まではこうした活動をしていなかったのではなく、テキストと指導書にそれぞれどこまで提示するかという配分が変わったのです。
具体的な例を挙げて『幼児の本』と『じゅにあー』を比較してみましょう。わらべ歌の《ほたる》は、両方のテキストで1巻の中盤で取り上げられます。図は前半4小節の抜粋です。
『幼児の本』ではシンプルに楽譜が掲載されており、指番号も付いています。ただ、文章で「はじめとおわりにすずやグロッケンをいれて、うたったりひいたりしてみましょう」と書かれていました。
『幼児の本』1巻に掲載された《ほたる》のページ(p.24)
※クリックすると拡大表示します
『じゅにあ―』の方は、タイトルの横に小さな譜例が付いています。これは、《ほたる》の旋律のリズムパターンを手で打ってリズムを学ぶとともに、子どもが楽曲の素材を先行体験できるような意図も含まれました。
『じゅにあー』1巻に掲載された《ほたる》のページ(p.14)
※クリックすると拡大表示します
このように各教材の重点項目がテキスト上に掲載された理由は、講師の育成にも関係していました。高橋氏の「先生方が自分で研究して」という言葉にあるように、実際のレッスンの現場では講師一人ひとりの力量が問われます。生徒数の増加に伴い講師の数も急増していた1960年代、各自の研究に委ねすぎて指導の軸がブレてしまうことを防ぐ目的もあったのでしょう。
当時の指導資料には「模倣と反復」が指導の根幹に据えられ、「やさしく、楽しく、正しく」を指導理念に「ことばを覚えるように音楽を」という指導の基本方針が掲げられています。講師が指導の大前提を改めて共有できるよう、用語や目標などがすっきりと整理されたのが『じゅにあー』時代の大きな特徴だとわたしは考えています。
- ※1 石川源四郎(1965)「音楽市場開拓のパイオニア ヤマハ音楽教室 需要創造に果すその意義」『マーケティングと広告』104号、pp.23-30より。
- ※2 1960年代には『小学生の本』というテキストがつくられていたほか、幼児科の中でも特に優秀な子どもを対象に一部の会場で「専門コース」が試行されていました(『muse』vol.3 No.25、No.26など、1963年)。しかし、幼児科修了生のコースとして「ジュニア科」の設置が全社的に進むのは1970年代以降です。
- ※3 『日楽社報』第139号、1961年、pp.19-24。
- ※4 参加した講師数は広報物によって1300~1500人と誤差がみられます。しかし「ヤマハ音楽教室講師全国大会 講師のしおり―1961浜松―」を一次資料と捉え、参加者名簿に名前を掲載された1900人超に参加資格があり、一部の講師が当日欠席したと判断しました。その上で「千五百有余人(総員千八百名)が浜松に集まり」(『muse』vol.1 No.6、1961年、p.49)の数字を採用しています。
- ※5 注釈1の著者でもある石川源四郎氏は当時ヤマハのPR本部に勤務。聴き取り調査にもご協力いただきました。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。