学び・教養
2022年02月10日掲載 / この記事は約12分で読めます
ヤマハ音楽教室、初のテキストは『幼児のオルガンの本』といいます。全日本器楽教育研究会のメンバーだった松本洋二、高橋正夫、伊藤英造の3氏が編著者を務め、講師のための指導書も同時期に編纂されました。
テキストの刊行により、いよいよヤマハ音楽教室は全国展開へ本格的に舵を切ります。そのための場所をどうやって確保したのでしょうか。金原善徳氏らが注目したのは、爆発的に増えつつあった幼稚園でした。新しい音楽教育の在り方を目指して、テキストも運営システムも整えられていきました。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
初のテキストは試作品だった?
高橋・松本・伊藤の3氏によって制作された『幼児のオルガンの本』は全2巻からなります。現存するテキストの奥付には1959年初版発行と記載されていますが、ヤマハ内でまとめられた音楽教室の歴史に関する資料の中には「1957年発行」と記されているものも散見されます※1。アーカイブプロジェクトが始まった2010年代、大きな謎の一つだったのは、既存の資料の中でこの初代テキストの刊行年に誤差がみられることでした。
『幼児のオルガンの本』および『幼児の本』の表紙
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調査がひと段落した今となっては、編著者3人の出会いが1957年と推定される以上(→本連載第3回)、『幼児のオルガンの本』はやはり現物のとおり1959年刊行の可能性の方が高いと考えられます。しかしプロジェクト開始時点では、初代テキストなんて大切な史料にはもっと確たる情報が残っていそうなものなのに……、というのがわたしの本音でした。やがて一連の調査を通して、こうした誤差が生じている原因について仮説が立つようになってきました。
『幼児のオルガンの本』に続くテキストは『幼児の本』といいますが、同じ編著者のもと1960年に発刊されています。つまり『幼児のオルガンの本』はきわめて短期間しか用いられていないのです。関係者の方々の間で「初めてテキストをつくったのは松本先生たち」※2という共通認識は強固である一方、松本氏らが編纂したテキストについて語られるとき『幼児のオルガンの本』と『幼児の本』は混同されやすい傾向がみられました。実際、見た目が似ているだけでなく一部同じ教材が用いられているため切り離して語るのも難しく、結果的に『幼児の本』に比べて『幼児のオルガンの本』に関する詳細な検証は行われずにきたのではないかと思われます。
『みんなのオルガン・ピアノの本』になったのは?
少し余談になりますが、ピアノの先生方やピアノを習った経験のある皆さんの中には『みんなのオルガン・ピアノの本』(全4巻)をご存知の方も多いでしょう。現在でもヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスから刊行されている、ピアノ教則本のロングセラーです。
『幼児の本』および『みんなのオルガン・ピアノの本』の表紙
従来使用されてきた旧版と新版の両方が現在では販売されていますが、旧版の方のデザインをご覧いただければ、『みんなのオルガン・ピアノの本』の元になっているのは『幼児の本』であることは明白です。『幼児の本』に掲載されていた《ヤマハ音楽教室の歌》がカットされている点以外は、両者はほぼ同じ内容です。
ところが、『みんなのオルガン・ピアノの本』の原著も『幼児のオルガンの本』と混同されやすいようです。オルガンという用語の有無によって、『幼児の本』より『幼児のオルガンの本』の方が『みんなのオルガン・ピアノの本』と名前が類似しているからかもしれませんね。
『幼児のオルガンの本』と『幼児の本』の違い
このように、現存する幼児科テキストの中では2代目となる『幼児の本』と取り違えられやすい『幼児のオルガンの本』ですが、両者には明確な違いがあります。それは、『幼児のオルガンの本』の方には「いろおんぷ」が採用されていた点です。もともと編著者の3氏は銀座店における「いろおんぷ」教室とは違うアプローチでテキスト制作に取り組んでいた訳ですから、『幼児のオルガンの本』では徹頭徹尾ヤマハ独自の新しいメソッドを示すまでには至らなかった、ということになります。ヤマハ音楽教室幼児科「講師のしおり」にある、次の記述もそれを裏付けています。
「講師のしおり」(1960頃)の表紙
「先輩の講師のなかには、色音符のメソードに対する雰囲気をもっている人が沢山いる。最初この教室は色音符から入ったからであるが、その後の研究により本来の白黒の楽譜でいくべきとして、導入のためのやむを得ぬ場合にのみ使っていく方針に変えたが教材の関係で不十分な点があったために、色音符の音を一時併用させたことがある。」※3
このような経緯を踏まえると、いろおんぷを併用させた『幼児のオルガンの本』よりも『幼児の本』の方が関係者の記憶に強いインパクトを与えているのも頷けます。それでも、ヤマハ音楽教室システムの土台となる基本方針は『幼児のオルガンの本』の段階で十分に固まっていました。また、指導資料やワーク等の副教材も見つかった状況から、アーカイブプロジェクトでは『幼児のオルガンの本』を初の共通教材としてのテキストに位置付けました。本連載も同様の前提でお話を進めます。
幼児科の礎となった『幼児のオルガンの本』
それでは、『幼児のオルガンの本』巻頭の「お母さまへ」と題された挨拶文から要点を抜粋してみます。
(カラー・太字は筆者による)
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音楽の総合的な基礎を育み、子どもたちが自発的に学び、自ら作曲もできるようになる。そして発達段階を考慮した適期教育。いずれも今日まで引き継がれている、ヤマハ音楽教室の核を形成しています。
また、鍵盤楽器を前提としたレッスンであることがよくわかる文章です。ヤマハは楽器メーカーなので当然と言えばそれまでですが、ヤマハ音楽教室に対する批判的な声の一つに「要は楽器を売るために始めたんだろう」という見方によるものがあります。確かに音楽教室事業にはマーケティングという側面があり、数々のビジネス系の雑誌や経営学の論文等で取り上げられてきました。ただ、少なくても企業戦略としての成否と音楽教育上の評価は別問題だとわたしは考えています。
そもそも社長の川上源一氏は欧米視察で目にしたような、人びとが楽譜なしでも家族や友達同士でハモったりさまざまな楽器でセッションしたりして楽しめるようになる社会の青写真を描いていました(→本連載第2回)。川上氏はおそらく当時から聞こえていた批判なども踏まえ、講師に向けても「(音楽教室は)決して販売のための手段ではない。みんなで自信をもっておし進めていこう」※4と繰り返し述べています。音楽教室事業は日本の音楽教育の在り方を変えるためだという、教育理念に振り切った態度。それを最高責任者がとり続けたことが、多くの専門家や指導者を巻き込んで音楽教室が発展していく原動力になったのかもしれません(経営者としての、本当の腹の内まではわかりませんが……)。
なお、テキストを編纂した松本氏らは、各々の経験から教育者としてハーモニー感覚の習得を重視していました。彼らの目指した音楽教育において、1人で一度に複数の音を鳴らせて、かつ幼児期から使える性質をもつ鍵盤楽器は単純に非常に有効性が高かったのです。音楽教育と会社経営の両方の意図が絶妙なバランスでかみ合ったことも、個人的にはヤマハ音楽教室の一つの奇跡だと思っています。
幼稚園会場の広まり
ここで視点を変えて、1950年代にヤマハ音楽教室の規模がどのように変化したかをみてみましょう。次のグラフは『経済人』32巻6号(1978年、p.577)をもとに作成したものです。
生徒数と会場数の推移
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子どもを対象とした音楽教室が始まった1954年、会場は銀座店のみ、生徒数は150人でした。その後、子ども向けの音楽教室を「ヤマハオルガン教室」と命名した1956年に1,000人、『幼児のオルガンの本』が刊行され「ヤマハ音楽教室」と改称した1959年には20,000人に生徒数が急増しています。
レッスン会場を確保し急激な生徒の増加への対応を可能にした運営システムは、銀座店以来この事業を牽引していた金原善徳氏と彼の片腕であった戸塚きん二氏※5らによって構築されました。
金原氏は、当時爆発的に増加していた幼稚園に着目しました。戦後の急速な子どもの人口増加に伴い、1950年代を通じて新しい幼稚園がどんどん増え、幼稚園経営者にとって他の園といかに差別化を図るかが強い関心事になっていました。そこで、幼稚園内に音楽教室を設置してもらい、そこに講師を派遣するアイディアが生み出されたのです。
金原氏はまず関東の特約店である水戸のコンドー楽器、前橋の煥乎堂、甲府の内藤楽器に音楽教室を開き、そこでレッスンを受けた子どもたちを銀座の山葉ホールに招いて公開レッスンを行いました。その公開レッスンに東京の私立幼稚園関係者を招待し、音楽教室の成果を知らしめることで幼稚園から音楽教室設置の支持を獲得していったといいます。
前橋・煥乎堂でのオルガン教室の様子
内藤楽器の内藤民部氏(調査当時、同社社長/現・会長)も、同社はヤマハ音楽教室の創設に携わったのだと先代の父親から伝えられていた、と語っています。また、1958年の『ヤマハニュース』23号には、煥乎堂の教室に関する記事も掲載されていました(p.12)。
テキストと運営システム、そして新講師への研修システムを整えながら、グラフが示すとおり1959年以降ヤマハ音楽教室は急速に拡大しました。
謎多き黎明期
さて、ここまで全12回(予定)のうち4回にわたって初代テキストが刊行されるまで、ヤマハ音楽教室黎明期に関するお話を綴ってきました。このアーカイブプロジェクトには幼児科の全テキストをカバーする目的があったものの、やはり古い時代の方が資料も情報も散逸が激しく、調査にも多くの時間を割いたことが本連載にも反映されたかたちです。
黎明期を締めくくるに当たり、ヤマハ音楽教室の創設・テキストの変遷というテーマの本流からは少し外れますが、黎明期に活躍した方々との交流から印象的だった、2つのエピソードをご紹介しておきたいと思います。
1つは、『幼児のオルガンの本』と『幼児の本』、初代と2代目のテキストの挿絵はどなたが描いたのかという疑問が解き明かされたこと。その偶然が起きたのは、1950年代の銀座店の様子をお伺いしようと、当時スタッフとして働いていた若松祐子氏のもとを訪ねたときです。息子で作曲家の若松歓氏も同席されたところで、実はテキストの絵を描いたのは祐子氏であったことを笑顔で教えてくださいました。祐子氏の夫であり歓氏の父は、後年ヤマハ音楽教室のテキストにも多くの楽曲を提供した作編曲家、若松正司(1928-2009)です。
もう1つは、運営の中心的存在だった金原氏を支えた戸塚氏が、聴き取り調査の後に送ってくださった本のことです。それは自費出版された自叙伝であり、内容のほとんどは2年間にわたるシベリア抑留の記録でした。復員直後に自らしたためた小冊子を元に作成されたとのことで、淡々と静かに書き連ねられた言葉から極寒の地の冷たさ、収容生活の厳しさ、理不尽や痛みが迫ってくるようでした。
平和ということ、子どもが子どもらしく音楽ができる時代が来たことの意味を、戦争を経験した世代の方々は理屈ではなく全身で深く理解されていたのではないか、そのことが無意識下でも新しいものを生み出す源泉になっていたのではないか。そんなことをわたしは想像しています。
- ※1 例えば、財団法人ヤマハ音楽振興会「ヤマハ音楽普及40年の歩み」(1995)の巻末年表には「1957:『幼児のオルガンの本』最初のテキスト出版」(p.12)と記載されています。
- ※2 ヤマハ音楽振興会にはかつて松本氏らのような音楽の専門家であるスタッフを「〇〇先生」と呼ぶ組織文化があり、それが多くの方々の語りにも反映されていたので呼称もそのまま引用しました。
- ※3 「講師のしおり」自体の発行年は不明ですが、内容は1960年度新任講師のための研修会で行われた石黒一郎氏(テキスト編著者、高橋正夫氏の恩師)の講義から収録されたものだと明記されています(p.2)。引用部分はp.27。
- ※4 『日楽社報』第144号、1961年、p.4。
- ※5 戸塚氏のお名前(きんじ)の「きん」は、正しくは漢字で土へんに力と書きます。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。