学び・教養
2022年04月08日掲載 / この記事は約12分で読めます
ポピュラーソングコンテストや世界歌謡祭など、1970年代にヤマハ音楽振興会はポピュラー音楽関連の大型イベントをさかんに展開しました。同時期に、ヤマハ音楽教室では子どもが自作曲を発表する「ジュニアオリジナルコンサート」、通称JOCが始まります。
幼児科テキストが4代目『幼児のほん』から5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』へと改訂したのも、JOCが開始したのと同じ1972年の出来事でした。紙面はハーモニー感覚の習得に関する素材で占められ、5代目は創作に特化したテキストとなりました。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
事業の多角化とリゾート開発
ヤマハ音楽教室がどんどん海外へ進出していった1960年代は、日本経済そのものが急速に発達しました。いわゆる高度経済成長期です。
この連載タイトルの元になっている「企業の現代史」41巻『よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』は1964年の刊行です。時代的には本の内容を本連載がいつの間にか追い抜いていました。「企業の現代史」のシリーズとは、「企業の繁栄の記録を動的にうつしだした〝現代史〟でもあります」と後書きに書かれています。まさに多くの企業が〝繁栄〟を遂げ、東京オリンピック(1964年)や大阪万博(1970年)など華やかな話題に彩られた時代だったのですね。
1970年代の合歓の郷野外ホール
ヤマハの場合、戦後まもなく楽器のほかにオートバイやオーディオ機器の製造にも参入し、やがてスポーツ用品やシステムキッチンなどさまざまな事業に着手しました。1960年代にヤマハが手掛けた事業の一つで、間接的に音楽教室運営にも影響をもたらしたと考えられるのは、リゾート開発です。『よろこびをつくる』の関係会社一覧にも掲載されている「中日本観光開発株式会社」を起点に三重県で鳥羽国際ホテルを開くと、その後もヤマハは日本各地で大型のリゾート施設を保有するようになりました。
中でも三重県志摩に開発されたリゾート施設群「合歓(ねむ)の郷※1」では、1969年に「合歓の郷ミュージックキャンプ」がオープン。「合歓ポピュラーフェスティバル※2」(1969~1972年)や「合歓ジャズイン」(1970~1984年)などのイベント会場として、国内外のアーティストが訪れる場所となりました。
また、1970年には「キーボード・コース」と「バンド・コース」を備えた、全寮制の「ネム音楽院」(1983年に「ヤマハ音楽院」に改称)を同地に開設。《上を向いて歩こう》の作曲で知られる中村八大(1931-1992)や、かの「ラジオ体操第一」の音楽を作曲した服部正(1908-2008)ら、名だたる著名人が講師を務めました。
ポピュラー音楽への情熱
前述のようなイベント開催等、ヤマハがポピュラー音楽にも積極的な姿勢を示すようになったのはなぜでしょうか。この運動を牽引したのも、ヤマハ音楽教室推進の中心人物であった川上源一(1912-2002)でした。
第19回ポピュラーソングコンテスト(1980年)の様子
川上氏が1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会の初代理事長となったのち、1969年に財団主催の「作曲コンクール」が始まります。1972年以降は「ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)※3」と名前を変え、1986年まで継続。アマチュアがオリジナルの楽曲を応募し発表できる、アマチュアコンテストでした。当時の若者を惹き付けただけでなく、中島みゆきらが入賞を機にレコードデビューを果たすなど、多くのシンガーソングライターを輩出した祭典としても有名です。
また、1970年に始まった「世界歌謡祭(初回のみ東京国際歌謡音楽祭という名称)※4」は1989年まで開催。世界規模でアーティストが集いオリジナル楽曲を披露し合う、「明日のポピュラー音楽を生み出すための歌の祭典」と謳われました。ポプコンのグランプリを含む入選曲から世界歌謡祭への出場曲が選ばれるという仕組みで、そこからヒット曲が生まれたケースもありました。例えば「とんで とんで とんで とんで とんで……」のサビで知られる円広志の《夢想花》は1978年の第16回ポプコンならびに同年の世界歌謡祭のグランプリ受賞曲です。
第5回世界歌謡祭(1974年)の様子
財団の主要3ミッションの一つ、「各種音楽コンテスト、コンサート等を通じての、音楽普及活動の実践と振興」は、これらのイベントを通じて実現が図られました。なお、1974年に「ヤマハリゾートつま恋」が静岡県掛川市にオープンし、ポプコンの会場は合歓からつま恋へと移りました。
ジュニアオリジナルコンサート(JOC)の始まり
このように財団の活動を概観すると、1969年の『幼児のほん』への改訂を含めて1970年代以降の事業拡大は今日の感覚では想像もつかない勢いだったのではないかと思います。ただ、ポピュラー音楽関連の取り組みが広がっても、川上氏の目指すところは一貫していました。
本連載では何度目かの繰り返しになりますが、川上氏はある社会の実現を理想に掲げていました。欧米視察で目の当たりにしたような、人びとが楽譜なしでも家族や友達同士でハモったり楽器でセッションしたりして、音楽を楽しんで暮らしている未来です。そこでジャンルの違いを問う必要はありません。音楽を通して人生を豊かにすること、より具体的には、自分の表現したいことを自由に、オリジナリティをもって演奏できること。自作自演は、現実を理想に近付ける最も代表的な形態の一つと言えるのです。
第1回JOC(1972年/合歓の郷)の様子
ポプコンや世界歌謡祭がポピュラー音楽分野でのオリジナル楽曲の祭典であったのに対して、ヤマハ音楽教室に通う子どもが自作曲を披露する催しが1972年に立ち上げられました。それが「ジュニアオリジナルコンサート(以下、JOC)」です。1987年からは「オリジナルコンサート~私たちの創った音楽」と題してテレビ朝日系列で放送されていたので、ご覧になったことのある方もいるかもしれません。
テレビや海外公演など大舞台になればなるほど非常に優秀な子どもたちが登場する機会は増えますが、必ずしも緻密に書かれたソナタなどばかりが評価される訳ではなく、その年頃の感受性でしか得られないような着想に基づく作品も多くみられるのが特徴です。わたしは中高生のとき、地元の楽器店で最優秀作品とされた幼稚園の子の歌の伴奏をした経験があります。バナナの皮が海辺で日焼けしたらタコになっちゃった、という物語を歌っていて、とてもいい曲でした。
テキスト名の定番『ぷらいまりー』登場
JOCがスタートし、作曲コンクールがポプコンに改称された1972年、ヤマハ音楽教室では4代目『幼児のほん』から5代目の幼児科テキストに改訂されます。幼児科の修業年限は3年というスタイルのまま、『ぷらいまりー』全4巻、『せこんだりー』全2巻、計6巻から構成されました。6代目以降のテキストでは単独で『ぷらいまりー』という名称が定着し、それが今日まで続いています。
編著は「ヤマハ音楽振興会教育部教育1課」、編集責任者を山岸三樹夫氏、編集スタッフを河江一仁氏が務めました。歴代テキストの中で唯一この『ぷらいまりー/せこんだりー』の制作については編集責任者の方々へのインタビューは叶いませんでした。存命中の山岸氏らをご存知の方々にご協力いただきながら、他のテキストと同様に文献調査等と併せて調査した形です。
ただ、5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』は他のテキストとの違いがわかりやすいつくりになっています。一言で表すならば、シンプル。テキスト上の教材はハーモニー感覚の習得に重点が置かれています。
テキストの巻頭に掲載された保護者向けの文章では、それぞれの年次における段階的な目標が示されています。1年目は音楽の楽しみを知り、2年目には将来に向かって必要な〝表現する〟ための基礎音楽力を養うことが大切である、3年目になると、体験した〝言葉〟を使って自分でもお話ができるようになる、としています。「自分でもお話ができる」とは、創作の比喩ですね。
『ぷらいまりー』(4巻)『せこんだりー』(2巻)の表紙
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ハーモニー感覚を身に付け、簡単な作曲ができるようになることは、初代の『幼児のオルガンの本』から一貫して掲げられてきた目標の一つでした。それでもこのタイミングで創作に特化した改訂が行われたのは、やはりJOCの影響が大きかったのでしょう。また、1巻に収録された《よあけ》という歌には日本語の歌詞がついていますが、原曲はウェイドの《It’s lovely(すばらしい)》、第2回世界歌謡祭(1971年)の入賞作品です。
JOC、ポプコン、世界歌謡祭。1972年のテキスト改訂は、同時代の財団の動向と強い相関があったのは明らかだと思います。
すべての道はカデンツに通ずる
それでは、テキストの中身をもう少し詳しくみてみましょう。5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』は6巻すべてを終わらせる頃には、子どもが一定の長さの曲に自分で伴奏を付けられるように構成されています。そのためにはカデンツの習得が鍵となります。
本連載第4回で、ハーモニーには句読点をつけるための型のようなものがあり、それをカデンツというと説明しました。『ぷらいまりー』の1巻では「終止形」という、フレーズに終わった感じをもたらすカデンツがほぼ全編にわたって繰り返し取り上げられています。
また、6巻を通じて一部の曲が複数回取り上げられるのも5代目テキストの特徴です。例えば《だいすきなパン》は1巻と2巻で出てきますが、演奏する部分が増え、伴奏も変化しています。譜例をご覧いただくと、音楽やピアノを習ったことがない方でも、大譜表の下の段、主に左手で弾く部分に空白があることにお気付きになるでしょう。ここにどんなハーモニーが響くのか、同じ曲を繰り返して段階的に理解が深められるようにする意図が読み取れます。
『ぷらいまりー』1巻に掲載された《だいすきなパン》(p.12)
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『ぷらいまりー』2巻に掲載された《だいすきなパン》(p.41)
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オルガンからキーボードへ
創作重視に一気に振り切ったように見える5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』。ただ、これも本連載ではたびたび指摘している点ですが、テキストに掲載されている内容がヤマハ音楽教室のレッスンのすべてではありません。『みんなのホームワーク』という復習用の家庭学習教材が導入されたほか、ハーモニー学習にテキストの紙面を割いた分、幼児科3年目には『みんなのレパートリー』という副教材が併用されました。
『みんなのレパートリー』・『みんなのホームワーク』の表紙
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4代目『幼児のほん』が歴代テキストの中でも比較的難しい内容だったと思い起こすと(→本連載第7回)、5代目には揺り戻しのような側面もあったのだろうと推察されます。というのも、演奏技能の点では副教材と併せても5代目はやや易しめの水準に抑えられているからです。4代目から5代目への改訂と、幼児科修了後のコース「ジュニア科」の本格的な開設がほぼ同時期だったことも、幼児科における定着目標のラインをどこに設定するかという議論に影響を与えた要因だったと捉えられます。
なお、ヤマハ音楽教育システムにおけるエレクトーンのコースも1970年代までに整備されました。それに伴ってレッスン会場にもエレクトーンの導入が進み、4代目『幼児のほん』の指導資料でみられた「オルガン」という言葉は5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』では「キーボード」に置き換わりました(エレクトーンだけではなくピアノも使うためです)。
数年ごとの改訂とさまざまな試行を重ね、幼児科のテキストはいよいよ最適化が図られる段階へと入っていきます。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。