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学び・教養
ポピュラーソングコンテストや世界歌謡祭など、1970年代にヤマハ音楽振興会はポピュラー音楽関連の大型イベントをさかんに展開しました。同時期に、ヤマハ音楽教室では子どもが自作曲を発表する「ジュニアオリジナルコンサート」、通称JOCが始まります。 幼児科テキストが4代目『幼児のほん』から5代目『ぷらいまりー/せこんだりー』へと改訂したのも、JOCが開始したのと同じ1972年の出来事でした。紙面はハーモニー感覚の習得に関する素材で占められ、5代目は創作に特化したテキストとなりました。

* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。

 

事業の多角化とリゾート開発

ヤマハ音楽教室がどんどん海外へ進出していった1960年代は、日本経済そのものが急速に発達しました。いわゆる高度経済成長期です。

 

この連載タイトルの元になっている「企業の現代史」41巻『よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』は1964年の刊行です。時代的には本の内容を本連載がいつの間にか追い抜いていました。「企業の現代史」のシリーズとは、「企業の繁栄の記録を動的にうつしだした〝現代史〟でもあります」と後書きに書かれています。まさに多くの企業が〝繁栄〟を遂げ、東京オリンピック(1964年)や大阪万博(1970年)など華やかな話題に彩られた時代だったのですね。

1970年代の合歓の郷野外ホール

ヤマハの場合、戦後まもなく楽器のほかにオートバイやオーディオ機器の製造にも参入し、やがてスポーツ用品やシステムキッチンなどさまざまな事業に着手しました。1960年代にヤマハが手掛けた事業の一つで、間接的に音楽教室運営にも影響をもたらしたと考えられるのは、リゾート開発です。『よろこびをつくる』の関係会社一覧にも掲載されている「中日本観光開発株式会社」を起点に三重県で鳥羽国際ホテルを開くと、その後もヤマハは日本各地で大型のリゾート施設を保有するようになりました。

中でも三重県志摩に開発されたリゾート施設群「合歓(ねむ)の郷※1」では、1969年に「合歓の郷ミュージックキャンプ」がオープン。「合歓ポピュラーフェスティバル※2」(1969~1972年)や「合歓ジャズイン」(1970~1984年)などのイベント会場として、国内外のアーティストが訪れる場所となりました。

 

また、1970年には「キーボード・コース」と「バンド・コース」を備えた、全寮制の「ネム音楽院」(1983年に「ヤマハ音楽院」に改称)を同地に開設。《上を向いて歩こう》の作曲で知られる中村八大(1931-1992)や、かの「ラジオ体操第一」の音楽を作曲した服部正(1908-2008)ら、名だたる著名人が講師を務めました。

 

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