学び・教養
2021年12月23日掲載 / この記事は約8分で読めます
ヤマハ音楽教室の前身となる取り組みが始まったのが1954年。それから60年以上にわたる音楽教室の歴史を紐解き後世に伝えるため、ヤマハ音楽研究所では教材のアーカイブプロジェクトを展開しています。幼児科のテキストはどのように編纂され、発展してきたのか――この連載では、編著者たちへのインタビュー調査を担当してきた研究員がエッセイを綴ります。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
『よろこびをつくる』の系譜
「よろこびをつなぐ」。この連載のタイトルは、今から50年以上前、1964年に刊行された『よろこびをつくる:日本楽器=ヤマハ』(以下、よろこびをつくる)という本へのオマージュとして付けました。1960年代にフジ・インターナショナル・コンサルタント出版部によって編まれた「企業の現代史」のシリーズでは、さまざまな企業の歩みが紹介されていました。『よろこびをつくる』は企業の現代史の41巻に当たります。
このシリーズは、本のタイトルに企業名がそのまま掲載されるというより、各企業の精神を表すようなキャッチコピーが用いられることを特徴としていました。例えば『暮しの夢のフロンティア : 西武百貨店』(1962)、『粉食文化のパイオニア : 日本製粉』(1964)など、各企業が産業の発展にどのような役割を果たしてきたかが短い言葉にぎゅっと凝縮されているように思えます。
それではヤマハの『よろこびをつくる』というタイトルには、どのような背景があるでしょうか。それは、プロローグに記された谷川俊太郎氏の詩に由来しています。谷川氏は、ヤマハの生産するピアノ、エレクトーン、ボート、オートバイなどを挙げ「そのどれひとつをとりあげてみても 生きるよろこびと無縁のものはない」(p.10-11)とうたっています。
『よろこびをつくる』はいわゆる文庫本サイズの小さな本ですが、1960年代までのヤマハの取り組みを詳細に記した、優れた歴史書でもありました。それから約50年を経て、世の中も、ヤマハも、大きな変貌を遂げました。特に、ピアノやエレクトーンなどの楽器そのものの販売ではなく、楽器の使い方――音楽の楽しみ方を伝える役割はヤマハ音楽教室として体系化され、2024年に音楽教室開講から70周年を迎えます。この連載では、ヤマハ音楽教室の歴史を切り拓いてきた方々へのインタビュー経験に基づき、教材開発がどのような変遷をたどってきたかをご紹介していきます。
アーカイブプロジェクトの裏側
1954年、ヤマハ音楽教室の前身となる音楽教室が始まり、「オルガン教室」と名付けられました。その後「ヤマハ音楽教室」として全国展開。1966年以降の音楽教室は財団法人ヤマハ音楽振興会によって運営されています。筆者自身も幼稚園のときにヤマハ音楽教室の幼児科に入りました。当時は「ミントとチェリー」がヤマハ音楽教室のキャラクターでした(この思い出を共有できる方は、同世代ということになります)。
7代目ぷらいまりー①テキスト表紙と当時のキャラクターの「ミントとチェリー」
その後も音楽を続け、演奏ではなく「音楽学」という分野で大学院まで進んだわたしは、やがてヤマハ音楽研究所の外部研究員も務めるようになりました。そこで「ミントとチェリー」時代のテキスト『ぷらいまりー』は、幼児科の歴史においては7代目のテキストに該当すると知りました。2010年代からヤマハ音楽研究所が進めていた教材のアーカイブプロジェクトには、資料の収集に加え、歴代のテキストの編著者の方々からお話を聴くという形で携わりました。
さて、今この文章を読んでくださっている方々の中には、そもそも過去の教材なんてすでに整備されているものなのでは?と思う方もいらっしゃるかもしれません。
答えは、半分イエスで半分ノーと言えます。「音楽学」という学問の中でも、音楽史、つまり歴史を扱う研究は代表的なものですが、日本に西洋の音楽がどのように移入し受容されてきたかについては、まだ数十年しか研究の蓄積がありません。特に、ヤマハ音楽教室を含む企業や民間団体による音楽活動の実態や歴史については、多くの謎が残っています(対して、例えば現在の東京藝術大学音楽学部の前身は東京音楽学校ですが、さらに遡ると明治時代に公的に設けられた音楽取調掛が母体になっています。国や自治体が設立に関わっている組織に関しては、公的な文書がたくさんの手がかりを残してくれている場合があります)。
今日でこそ「企業アーカイブズ」という言葉も知られるようになりましたが、かつての日本では記録を保管・活用するというアーカイブの重要性は今よりも社会的に認識されていませんでした。まして音楽団体や音楽教室では、運営主体の変化・解散とともに重要な資料であっても散逸するのが珍しくなかったという訳です。
写真提供:PIXTA
わたしは博士論文で日本のプロ・オーケストラの歴史をテーマにしましたが、特に自主運営で発展してきた団体に関する調査では資料の収集自体にとても苦労しました。ヤマハ音楽教室についても、財団設立以降に徐々に教材や関係資料が集められるようになっていたものの、未来の活用に向けた十分な体系化には至っていなかったのです。
テキストは誰がつくってきた?
資料の収集だけでは全容がつかめないのなら、どうするか。プロジェクトチームとして、当時を知る関係者の方々のオーラル・ヒストリー(口述回顧録)を集める方法を採ろうと決定しました。
ところで「テキスト」とはヤマハ音楽教室で使用する教科書のような位置付けで、レッスンの中核をなします。インタビューは、歴代テキストの編著者の方々を中心にお願いする計画を立てました。現行の幼児科テキスト『ぷらいまりー』の奥付には「編著 ヤマハ音楽振興会」と記されていますが、歴史を遡ると過去のテキストの編著者には財団スタッフの名前が明記されています。インタビューのため北は山形、南は宮崎にまで足を運びました。
初の幼児科のテキストは『幼児のオルガンの本』といい、1959年に刊行されました。それを初代テキストとすると、現行の『ぷらいまりー』は9代目です。アーカイブプロジェクトを始めた時点で、初期のテキスト編著者の方々のほとんどはご高齢でした。プロジェクトの途中で鬼籍に入った方々もいらっしゃいます。
歴代幼児科のテキスト
それでも、ご自身が制作に関わったテキストについて、どのような音楽観、教育観のもとで編纂、改訂したのか、どのような教育方法や教室運営を模索してきたのかを彼らが語るときの熱量に、わたしは圧倒されました。単純にテキストにどのような曲をどのような構成で掲載するかだけではなく、その曲や素材を用いてどんなレッスンを想定するか、そのための講師の育成はどのように行うかなど、テキストの制作に関する議論は音楽教室の在り方を方向付ける重要な転換点であったのだと実感したからです。
インタビューで伺ったお話をすべてここに掲載するのは不可能です。しかし、何万人もの子どもたちが使用したテキストにはどんな夢が込められていたのか、テキストを編纂したのはどんな人びとなのか、その一端をこのシリーズを通してお伝えしていきたいと思います。次回は1954年、子ども向けの音楽教室が生まれる端緒となった銀座店の取り組みについてご紹介します。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。