学び・教養
2022年03月24日掲載 / この記事は約11分で読めます
1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会が設立し、1970年代に なると「ヤマハ音楽教育システム」が整備されていきました。また、財団設立と前後してヤマハ音楽教室の海外進出が進み、アメリカでは山村和美氏がアメリカ版のテキスト制作に尽力します。
その山村氏が帰国して編集責任者となり、1969年に幼児科テキストは4代目『幼児のほん』に改訂されます。3代目『じゅにあー』までのテキストとの違いは、「レパートリー」の捉え方にありました。「レパートリー」という言葉は、ヤマハ音楽教室の指導法特有の意味で用いられます。
* ヤマハ株式会社は、1887年に山葉寅楠(1851-1916)が創業し、1897年に設立した日本楽器製造株式会社が前身です。現在の名称となったのは1987年ですが、本連載では読みやすさを考慮し1987年以前の出来事についても社名を「ヤマハ」で表記しています。
財団法人の設立と海外進出
3代目テキスト『じゅにあー』の時代の話題になりますが、ヤマハ音楽教室の運営は1960年代に大きな転機を迎えます。1966年、財団法人ヤマハ音楽振興会(2011年から一般財団法人へ移行)が設立され、本社から音楽教室事業が移管。初代理事長には、音楽教室を推進してきた川上源一氏が就任しました。
ヤマハ音楽教室の役割は次の3つに大別されます※1。
● 幼児から成人にいたる「ヤマハ音楽教育システム」の指導内容の研究と、その展開
● 音楽を広く社会に普及するための、音楽指導者の養成
● 各種音楽コンテスト、コンサート等を通じての、音楽普及活動の実践と振興
川上氏は「また、ヤマハの音楽普及活動は、インターナショナルであることをその使命としてきました※2」と述べています。
海外で初めてヤマハ音楽教室が開設されたのは、財団設立より早い1964年です。アメリカを皮切りに、1966年にメキシコ、カナダ、タイ、翌67年にはドイツというように、60年代には海外進出も進みます。海外に教室を開くには、当然指導者やスタッフ、その地域の言語によるテキストが必要なため、日本から各国に人が派遣されました。それが『じゅにあー』の次のテキスト改訂の伏線となりました。
ヤマハ音楽教育システムの構築
先述のとおり、財団法人の設立に伴って「幼児から成人にいたる」音楽教育の在り方を模索していこうという潮流が生まれました。ただ、「ヤマハ音楽教育システム」という用語がいつから使われるようになったのかは定かではありません。アーカイブプロジェクトで収集した文献や資料では、財団設立前は意味内容的に「システム」に近い文脈でも「ヤマハ音楽教室」として語られています※3。
財団が設立して以降の幼児科では、1969年に3代目『じゅにあー』から4代目『幼児のほん』にテキストが改訂されました。声にして読むと2代目『幼児の本』と同じになってしまうため、アーカイブプロジェクトのメンバーの間では4代目を指すとき「ひらがな幼児のほん」と呼んでいました。『じゅにあー』と同様に『幼児のほん』時代の幼児科の修業年限は3年で、テキストは全6巻が現存されています。
『幼児のほん』への改訂と同時期には、幼児科修了後のコースの設置も検討され始めました。1970年の『ヤマハ音楽通信』には「ジュニア科 5月スタート 幼児科終了後に3年間」という記事が掲載されています(第39号、p.2)。幼児科と同様にジュニア科も黎明期は混沌とした歴史があるので割愛しますが、いずれにせよ幼児科修了後のコースの整備を試みる過程で「音楽教室」から「音楽教育システム」という概念と用語に取って代わったのだろうとわたしは考えています。1971年時点では「指導体系」として次の図が残っています。ここから幼児科は4~6歳と設定されたこともわかります。
『ヤマハ音楽通信』第51号に掲載された指導体系(p.8)
※クリックすると拡大表示します
ヤマハ音楽教室の歴史を把握する上でのポイントは、1970年代は幼児科単体ではなく音楽教育システムという観点からコース整備が推し進められた時期であること。対象年齢が改めて設定されたのも、後ろに続くコースができたからでしょう。また、同時期に財団としてポピュラー音楽関連の普及にも力を入れ始めるなど財団全体の動向からの影響も小さくありませんでした。
4代目テキストは逆輸入版?
さて、『幼児のほん』にお話を戻します。4代目となる『幼児のほん』は全6巻からなり、編著者は「財団法人ヤマハ音楽振興会」と記載されています。編集責任者を務めたのは、山村和美(当時・氏原)氏です。
ヤマハにおいて山村氏は器楽講師として活動を開始。村川千秋氏(→本連載第6回)とともにエレクトーンの教材開発などに携わったのちに渡米し、ヤマハ音楽教室のアメリカ進出に尽力しました。アメリカでは当初2代目テキスト『幼児の本』を翻訳して使用していましたが、やがてアメリカのヤマハ音楽教室用のテキストを制作。そうした実績があって、日本でテキストの改訂が行われる際に編集責任を任されるに至りました。『幼児のほん』は山村氏のアメリカ時代のテキスト制作で培われたアイディアが詰め込まれているので、テキストの逆輸入と言ってもよいかもしれません。
また、3代目『じゅにあー』までは複数の編著者で編まれたのに対し、『幼児のほん』は山村氏1人が編集責任を担った点も歴代テキストの中で唯一のケースです。テキスト1巻の冒頭に記された挨拶文を要約すると、『じゅにあー』まで掲げられてきた教育理念をそのまま継承しています。しかし、音楽教育的には『幼児のほん』は初代から3代目までのテキストとは異なる方向のアプローチを試みています。従来のテキストとの違いは「レパートリー」の捉え方にありました。
(カラー・太字は筆者による)
※クリックすると拡大表示します
「レパートリー」という概念
「レパートリー」という言葉は皆さんも日常的に使われていると思います。基本的な意味は歌手や俳優がいつでも上演・演奏できる劇や曲目のことですが、例えば「○○さんの料理のレパートリーは広いよね」というように、得意を発揮できる持ち札のようなものは広くレパートリーと呼ばれます。
ヤマハ音楽教室における「レパートリー」は、子どもがその曲をいつでも演奏できるようになるのが目標という点では本来の意味と同じですが、指導法上はヤマハ特有の語法で用いられています(そもそも普通はすでに得意の手中に収めたものをレパートリーと呼ぶのであって、これからレパートリーにしたいという希望的観測の段階でそれをレパートリーとは言わないですね)。
『幼児の本』だとテキスト上に「弾く」ための教材が並んでいるのでわかりづらいかもしれませんが(→本連載第5回)、『じゅにあー』ではテキストに含まれる教材は大きく次の3つ、歌詞付きの歌(歌唱)、弾くための楽曲(レパートリーに該当)、アンサンブルのための楽曲にカテゴライズされます。鍵盤楽器を通して音楽の総合的な基礎を学ぶ。ヤマハ音楽教室の教育理念に実現には「レパートリー」はレッスンの中核をなすとみなされるようになり、その扱いは重大な検討課題でした。
『じゅにあー』の場合、1つのレパートリーからさまざまな音楽の要素を学んでいく教育志向のもと編纂されていました(→本連載第6回)。『幼児のほん』ではレパートリーを起点にリズムやハーモニーなどを項目ごとに発展させて学びながら、歌うこと・鍵盤楽器を演奏すること・アンサンブルなどをすべて一つの音楽として統合していく、という発想のもとテキストがつくられています。
『幼児のほん』(全6巻)の表紙
※クリックすると拡大表示します
ソルフェージュの充実とテキストの難易度
具体的な内容をみてみましょう。『幼児のほん』の楽譜には歌、オルガン・ピアノ、さまざまな楽器のかわいいマークがついています。指導資料「指導ノート」に提示された観点によると、この時代の教材は「歌唱(歌詞付きの歌)」「オルガン奏(これがレパートリーに該当します)」「きれいにうたいましょう」「アンサンブル(リズム・楽器)」「まるをかいてあそびましょう」の5つにカテゴライズされていました。テキストにおける教材の中でレパートリーの曲数が減り、ソルフェージュ中心の構成になっています。なお、幼児科で大人気となる《だいすきなパン》というレパートリーは『幼児のほん』で初めて登場しています。
『幼児のほん5』より「きれいにうたいましょう(1)」(p.10)
※クリックすると拡大表示します
『幼児のほん2』より《だいすきなパン》冒頭4小節(p.38)
※クリックすると拡大表示します
テキストというものの特徴は調や拍子、リズムなどがどのような配列になっているかも重要ですが、端的に言って『幼児のほん』の教材は早い段階で転調を含んだり、和声感の豊かな曲が多く、音楽的である一方で幼児には難しいという声もあったのではないかと推察されます。また、テキストの中で弾く教材が減った分、演奏技能の面での学習を補うために幼児科2年目以降は『テーマとへんそう』という副教材が併用されました。項目別に発展させていく指導法は、結果的にレッスンで取り扱う素材の量も多くなるという性質をもち合わせたのです。後年、この項目別学習という指導法は、幼児科ではなく「専門コース」という、より専門的に学びたい上級者向けの課程に引き継がれ発展していく道をたどりました。
オーケストラの美しさが原点
分析的な視点をもち、項目別に発展させ、やがて一つの音楽として統合していく。編集責任者である山村氏がこうした着想に至ったのは、山村氏が育った環境が大きく影響しているように思われます。
山村氏はクラリネット奏者の父とピアノ奏者の母をもち、歌の伴奏を弾いたり編曲したりするといったようなことを実践的なかたちで学んだそうです。また、日本のオーケストラの草分け的存在だった指揮者・作曲家の近衛秀麿(1898-1973)の弟子だったことから、山村氏も作曲家・指揮者・ピアニストとして活動するかたわら朝日ジュニア・オーケストラ※4の教室を手伝っていました。
山村氏は次のように語っています。
山村和美氏 近影(撮影:筆者)
「わたしはヤマハに入る以前からジュニア・オーケストラなんかでオーケストラの世界に身を置くことが多かった。その中でやはり聞こえてくるものっていうのはメロディ、ハーモニー、リズム。それらが、それぞれ独立した形で、尚且つ総合して音楽になっていくという、そういう美しさに惹かれていた。それが根底にあると思うんです。
この編纂に当たってのポイントとしては、ピアノの演奏のための教室ではなくて、“音楽をする教室”というところに自分は夢をもったと思います。(中略)ただ、分析をしていくということは子どもたちにとって必要なことだし、それは子ども自身でやれれば良いけれど無理なので、教科書の中ではっきりと1つずつ分離しながら提示していって、それを繰り返し、繰り返ししていって、最終的には大きな音楽として捉えていけるようなものになればいいな、というのが、いちばんのねらいだったと思います。」
現在は京都音楽院 京都国際音楽療法センター院長の職にある山村氏。いつお会いしても、子どもの表現の可能性を開放するには指導者が固定観念を捨てなければならない、という姿勢に頭が下がります。「表現するために必要な物事を教えても、どういう風に表現するかまでは教えちゃダメ」。山村氏が今も昔も重視しているのは、子どもが音楽を楽しいと感じ、自分の心の声に従って表現できるようになることなのだと思います。
- ※1 川上源一(1986)『新・音楽普及の思想』財団法人ヤマハ音楽振興会、p.26。財団法人ヤマハ音楽振興会 関西支部(1978)「産業展望 音楽教室」『経済人』32巻6号、p.576ほか。
- ※2 川上源一、前掲書、1986年、p.27。『音楽普及の思想―川上源一語録―』ヤマハ音楽振興会、1995年、p.30ほか。
- ※3 財団が設立した年の記事でも「ヤマハ音楽教育システム」を固有名詞的には用いられていません。例えば、佐野雄志(1966)「特集・消費者組織化〈ケースその4〉日本楽器 世界に伸びるヤマハ音楽教室」『マーケティングと広告』114号、pp.17-21など。佐野氏は当時のPR本部課長です。
- ※4 朝日ジュニア・オーケストラは朝日新聞社の主催で開設された音楽教室。朝日新聞社内に東京本部教室を置き1950年代後半には名古屋や大阪などでも教室を展開しました。近衛秀麿と作曲家の山田耕筰(1886-1965)は最初期の顧問を務めています(『音楽年鑑1958』ほか)。
◇著者プロフィール
小山 文加(おやま あやか)
教育NPOに勤務しながら芸術・文化と教育・福祉領域を横断して研究に取り組む。国立音楽大学および洗足学園音楽大学非常勤講師。
東京学芸大学大学院(教育学修士)を経て、東京藝術大学大学院博士後期課程修了。大学院アカンサス音楽賞受賞。博士(学術)。専門は音楽史、アーツマネジメント。
アーツカウンシル東京調査員(2012~14年)、東京藝術大学音楽学部助教(2015~2019年)などを経て現職。港区文化芸術活動サポート事業調査員、ロームシアター京都リサーチャー(2020~2021)等を兼務。
ヤマハ音楽研究所では2009年から一部調査研究業務の委託を受け、アーカイブに関するプロジェクトに参画。